しまった、そう彼は思った。
この時の信太郎は、咄嗟に機転をきかせて、嘘のひとつでも言える器用さに欠けていた。
一度空を仰いだ。
真っ白な息が宙に舞うと、霧のようにはかなげに消えていく。
「…ごめん」
そう言って、綾乃の強張った顔を見ると、「ナツって誰?」そう問いただしたい、そんな表情だった。
「ごめ…」
もう一度謝ろうとした信太郎の頬に何の前触れもなく、さらりと細くて柔らかな髪が触れた。
初めて会ったときと同じ、甘い香りがすぐ近くでする。
肌と同じ陶器のような、そして冷たい唇だった。
顔が遠ざかると、彼女は白い息をまとわりつかせながら訊いた。
「積極的な女の子は嫌い?」
唐突なキスにどうしていいのかわからず、信太郎は「いや」とだけ答えて視線をそらせた。
「私たち付き合ってるのに、なんだか全然距離が縮まらないわね…」
「……」
言葉を探す彼を見兼ねて、とうとう綾乃が先に口を開いた。
「困らせるつもりはなかったの、ごめんなさい」
走り去る彼女の長い髪が跳ねるように踊った。
ここは彼女を止めるべきなのだろう。
「待てよ」とその腕をつかむべきなのだろう。
だが、信太郎の足は根が張ったように動くことはなかった。
「ナツ」と無意識のうちにその名を呼んでいたことに、愕然としていたのだ。
いつも夜空を見上げる時に、そばにいるのは彼女だった。
「ねえ、まだ?まだ?」と信太郎を急かして、望遠鏡をのぞきたがる…そんな幼なじみ。
「うるさい!座って待ってろ、おすわり!ふせ!」と犬のように扱うと、膨れっ面をして本当に座って待っていたことがあって、笑ってしまったものだ。
そんなことが思い出されて、彼は先ほど綾乃と重ね合わせた唇を噛み、頭を抱えてうなだれた。


