「行こう、なっちゃん」
「……」
その瞳はもうすでに何もとらえてはいなかった。
落ち着きなく、黒い瞳が揺れる。
「なっちゃん!」
「あ…うん…ごめ…」
瞬きを2、3度せわしなくすると、雅樹に背中を押されるように夏海は改札に足を向けた。
雲の上を歩いているようだった。
信太郎にカノジョがいる。
おかしなことではない、と頭ではわかっていた。
信太郎は昔から男女問わず人気があった。
ルックスもいいし、おもしろい。
飄々(ひょうひょう)としたところがあるが、皆に平等に接する。
そして彼の近くにいればいるほど、いかに優しい人なのかわかる。
だから恋人ができても、なんらおかしなことではないのだ。
むしろ今までいなかったほうが不思議なくらいだ。
そうわかっているのに、心がついていかない。
自分の胸に向かって「当然のことだよ」と言い聞かせようとしても、あまりの痛みのせいで受け止めきれない。
だからといって、壊れるそうなほど震える心のままに泣くことは、ますます自分を辛くさせてしまいそうで怖い。
夏海はその日、雅樹と何を話しながら、どうやって帰ったのか、全く覚えていなかった。
ただ、楽しそうに寄り添うふたりの姿が、目を閉じると鮮明に思い出されて、眠れなかった。


