「ああすればよかった、こうすればよかったって誰しも後悔することだけれど、一通り悔やんだら、もう前を向いて歩くしかないんだよ。時は戻らないんだから」
前を向いて歩く、時間は巻き戻せない。
そんな抽象的なことを当たり前のように言われても、ピンとこない。
この気持ちをぶつける相手がいなくて、どうしていいのかわからずにこうやって加瀬のところまで来たのに。
「…俺にはよくわかりません、その前向きってやつが」
首を横に振る信太郎に加瀬は「だろうね」と笑った。
「そばにいない人を想い続ける、それは本当に大変なことだと思う」
そんな加瀬の言葉にはどこかしら実感がこもっているような気がした。
「俺は心底愛した女性と一緒になれた。いろいろあって、結果として別れることになったけど、後悔はしてないよ」
「今でも好きなんでしょ?だったら別れなきゃよかったって思うんじゃないですか、普通」
「君の言うことも、もっともだよ。初めは意地でも離婚なんてしないって思ってたからね」
加瀬は笑みをたたえたまま、伏し目がちに言った。
「でも、何気なく見逃していた彼女のしぐさ、軽く聞き流していた彼女のつぶやき…ずっとあのまま幸せでいたら、気づかないまま忘れてしまう、そんなささやかな思い出のひとつひとつが、別れてみて初めて鮮やかによみがえってくるんだ」
カーテンレースが大きくはためいた。
ハタハタとその身をひるがえし、やがて何事もなかったかのように微動だにしなくなった。
その静寂の中で加瀬は口を開いた。
「俺と君にとって、『愛し続ける』ってことは、なくしたものの大きさを思い知らされること、なんじゃないかな」
そして加瀬は伏せた写真たてを見やった。
「相手がそばにいようがいまいが、その人を愛し続けるということは、自分の人生にその愛がどれだけ必要だったか、だと俺は思う」
言い切った彼の瞳には強い光が宿っていた。
「要は、相手との想い出をどう君が受け止めるか、だよ。想い出からでも、充分に愛は育つ」


