「ただいま…」
「おかえり、なっちゃん」
祖母の武子が、「寒かったでしょう、ご飯はもうすぐだからね」と言いながら、台所で軽快な包丁の音を奏でた。
その合間にクツクツとくすぶるように鍋から甘辛い湯気が立ち上る。
自分の部屋に入ると、夏海は制服を脱ぎもせずにベッドにうつぶせた。
耳に残る信太郎の言葉。
『うっとうしいんだよ』
それが苦しいほどに悲しくて。
あまりの悲しさゆえに苦しくて。
声をあげて泣けたら、どんなに楽になるだろう。
しかし、彼女は声を漏らさぬよう必死に顔を枕に押し当て、ひとり泣いた。
顔をうずめた枕からは、いつも使っているシャンプーの匂いがした。
それからの夏海と信太郎は、全く口を利かなくなった。
学校の廊下ですれ違っても、まるでお互いが存在していないかのようにふるまう。
雅樹が中学卒業までに何とか仲直りさせようと策を練るも、二人とも頑固なところはそっくりで歩み寄る気配は皆無だった。
そのまま幼なじみの三人は春を迎え、それぞれが第一志望の高校に通い始めた。
桜が咲き、そして散っていく。
毎朝同じ駅のホームで同じ電車を待ち、同じ駅で降りるのに、「おはよう」の一言すら交わさない。
青葉が繁り、長雨が続く時期になっても夏海と信太郎はお互いを避けたまま、時は流れていった。


