市原診療所を出ると、駅とは反対の方向へと走り出す。
確か、自宅はこちらの方角だと彼は言っていた。
今日に限って、ヒールの高い靴を履いてきたことが悔やまれる。
舗装されていないこの町の道では、こんな靴で走るのはわざわざ捻挫を願っているようなものだとさえ思う。
しかし、綾乃は冷たい風に頬を上気させながら、「彼」を追った。
「辻本くんっ!」
ちょうど大きな波が浜に打ち寄せたせいで、綾乃の細い声はかき消されてしまった。
「辻本くん!」
二度目に叫んだとき、驚いたような顔の雅樹が振り返った。
児玉さん、そう口が動いた。
肩で息をしながら、綾乃はゆっくりと彼に近づいた。
「どうしたの?」
「辻本くんこそ、今日はすぐに帰っちゃったのね。いつもはずっと夏海さんについてるのに」
「ああ、それは…」
照れくさそうな、困ったようなそんな表情の雅樹に綾乃は言った。
「ごめんなさい、余計な詮索だったかしら」
「いや、いいんだよ。実はさ…」
そう言って、何かに気付いたように辺りを見回した。
「カフェとかそういう気のきいたものが、ここにはなくってさ。歩きながらでもいい?」
そう言って、雅樹は駅の方向を指差した。


