「こんにちは、おじさん」と薬品の匂いが漂う廊下で、雅樹が小走りに克彦に近づいてきた。
「ああ、いつも悪いね」
「もしかしてなっちゃん、寝ちゃった?」
ああ、と頷く克彦の手を取り雅樹は「ちょっといいですか」と真剣な顔を向けた。
風もなく穏やかな陽射しが降り注ぐ屋上。
車椅子に乗ったお年寄りや、松葉杖をついた若い男性が家族らしき人に付き添われて談笑したり、ひなたぼっこをしている。
「なっちゃんのこと、信太郎に知らせなくていいんですか」
ひんやりとした風が、ふたりの頬を撫でる。
「夏海が知らせなくていいと言うんだ。信ちゃんに余計な心配をかけるからって」
「余計なこと?!大切なことじゃないですか!信太郎だって、こんななっちゃんの状況を知れば会ってくれる。そしたらなっちゃんだってもっと…」
雅樹は口をつぐんだ。
それ以上言えなかった。
なっちゃんだって、もっと希望を持って少しでも長く生きることができる…そう言おうとして、克彦の「もうそれ以上先は言ってくれるな」というような視線とぶつかったのだ。
「なぁ、マーくん。夏海が豊浜に帰りたいって泣くんだ」
「豊浜に?」
「死ぬなら豊浜でって。ばあさんたちとの思い出がつまった場所で最期を迎えたいんだとさ」
「…どうするんですか?」
「俺としては夏海の願いをきいてやりたい。でも豊浜に帰ったら、ここみたいな治療は受けられないだろうし…」
確かに、そう呟いたきり雅樹はうつむいた。
「あーあ、父親なんていざとなったら娘のために何もしてやれないもんだなぁ…」
熱いタオルで身体を拭いてやることも、体力の落ちた娘にトイレの中まで付き添ってやることもできない。
夏海が嫌がるのだ。
身体は日に日に弱っていくのに、女としての恥ずかしさだけは昔のまま、娘の中で生きている。
「だからあいつのやりたいことは、できるだけかなえてやりたい」
救急車がけたたましいサイレンと共に、大学病院の緊急搬送口に滑り込んでくるのが見えた。
ストレッチャーに乗せられた血だらけの男性が慌ただしく中へ運び込まれてゆく。
「人の人生なんてわからんもんだな。きっとあの人だって数時間前には自分がこうなるとは思ってもみなかっただろうに」
「おじさん…」
「俺が夏海の立場なら、きっと同じことを言っただろうな。最期に見る風景があの海と空なら、死ぬことの怖さも多少は和らぐかもしれないって」
彼らの目の前に、豊浜の青く澄んだ海と空が広がっていくようだった。


