豊浜の診療所の市原医師は、珍しく厳しい顔つきでカルテを書いていた。
「よくならなかったら、すぐに来てと言ったはずだよね」
「すみません…」
膝に置いた手をぎゅっと握りしめて、夏海はうつむいたまま顔をあげることができなかった。
確かにそう言われていたのにここに足を運ばなかったのは、自分に非があるからだ。
「なっちゃん、若いから大丈夫だなんて、絶対にそんなことないんだよ。侮っちゃいけない。若くして病気で命を落とす人もいる。君だって身をもってそこのことをわかってると僕は思っていたよ」
母のことを言っているのだと思った。
夏海の母は享年28歳。
何の病だったかは祖母も父も詳しくは教えてくれなかったが、それ以上に訊いてはいけない雰囲気を幼い頃から感じていた。
だから母の病名を夏海は知らない。
「大きな病院で検査したほうがいい。設備も整ってるからね。紹介状書くから、それを持ってすぐに行きなさい。初診扱いだから予約はできないよ。待ち時間は相当長くなるだろうけど、仕方ないね」
「…はい」
仕事がある、などと言えなかった。
それくらい市原医師は厳しい顔をしていた。
「いいね、明日にでも行くんだよ」
「はい」
神妙な面持ちで頷く夏海に、彼はふっと優しい眼差しを向けた。
「大丈夫、私の後輩がそこで内科医をやってるから。そいつ宛に紹介状を書いておくよ。おっとりしてるけど、いい医者だから」
ありがとうございます、深々と頭を下げると夏海は診察室をあとにした。
待合室には顔見知りの人で溢れかえっている。
皆に軽く会釈をしながら会計をすませ、彼女は診療所を出た。
胃潰瘍、そんなとこだろうな、と暮れかけた空を見ながら思った。
貴重な夏休みも終わり明日から仕事だというのに、有休をとらせてくださいと課長に連絡しなければならないことに憂鬱さと億劫さを感じながら、自転車にまたがる。
信太郎には黙っていよう。
きっと今夜電話で「どうだった?」と訊いてくるはずだ。
だけど、夏の疲れが出ただけだと言っておこう。
検査をするだなんて知れば、心配する。
昨日だって妊娠しているかもしれないと騒いだのだから。
もうこれ以上、彼の心を乱してはいけない。
黙っておこう…。


