ハンカチで口元を抑えると、彼女はトイレマークのプレートがかけられた小さなドアに駆けていった。
信太郎がこちらを見ていることはわかっていた。
扉を閉めると、がまんできずに彼女は咄嗟に洗面台を抱え込む。
胸が波打ち、少量の胃液がポタポタと下唇からしたたり落ちた。
何も出ない…
それなのにこのひどい吐き気は何なのだろう。
胃の中はからっぽだ。
朝も何も受け付けなかった。
毎朝飲むフルーツジュースでさえも。
肩で息をしながら、すっぱい口の中に何度も水を含んだ。
ここ最近、前にも増して調子が悪い。
せっかくの信太郎との楽しい時間なのに。
口元を拭いて顔をあげると、鏡に映った自分の顔に、夏海は後ずさりした。
ひどく顔色が悪い。
唇もカサカサで色艶もあったものではない。
呼吸を整えながら、彼女はバッグから化粧ポーチを取りだした。
「…チーク、入ってたかな」
ポーチからそれを取り出すと、頬全体にブラシを滑らせる。
ほんのりと色づいた肌に、次は明るめのグロスをたっぷりと唇にのせた。
信太郎に体調が悪いことを知られたくない。
余計な心配をかけたくない。
席に戻っても、目の前に置かれた丼の中身を見ることすら苦痛だった。
「どした?」
箸をつけようとしない彼女を見て、信太郎がのぞきこんできた。
「食べろよ」
「…あ、うん…」
木箸を静かに割ると、夏海は茶色のヨレヨレした肉を恐る恐るつついた。


