「ごめん、俺、約束守れない。星が降るあの町に連れていってやれない」
いいの、そんなのいいの、と夏海は彼の冷たい手を取ると、顔をのぞきこんだ。
冷たい春先の波が、彼女の膝を何度も洗っていく。
「ごめん…」
そんな目を伏せた信太郎の、色を失った唇が震える。
「いいんだってば」
夏海はそう言うと、ふわっと覆い被さるように彼を抱きしめた。
優しく、まるで包みこむように。
「豊浜だって星きれいだよ。また見せて、信ちゃんの望遠鏡で。ウンチクも嫌がらずに最後まで聞くから」
信太郎の手が、その細くて頼りなげな彼女の背中に伸びるも、ためらったように止まる。
「私ね、24時間ずっと信ちゃんのことを想ってるんだよ。朝起きて信ちゃんのこと考えて、ご飯食べながら信ちゃん起きたかなって心配して、仕事しながら信ちゃんと映画に行きたいなって思って、買い物しながら信ちゃんにお弁当作ってあげたいなって…そんなふうにずっと想ってる」
打ち寄せる波の泡が弾ける音が、妙に大きく聞こえた。
その時、信太郎は気付いた。
彼女が背中に回してくれた手が、暖かいことに。
彼女の髪がこの顔に触れるたび、くすぐったいことに。
彼女の柔らかい頬がこの耳に当たって、心地いいことに。
今、こんな自分を包み込んでくれているのが他の誰でもない、夏海であることに。
「だから、お願い。信ちゃんのそばにいさせて」
彼はそんな彼女の背に腕を回した。
どれくらいぶりだろう、こうやって夏海を抱きしめたのは。
強く、強く…
彼女は「海」だ、大きな海だ。
砂浜のキャンパスがどんなに傷ついても、その波で洗い流してくれる。
まっさらにしてくれる。
「…ナツ」
信太郎の呼吸が小刻みに乱れ始めた。
「大丈夫だよ、信ちゃん」
察したように夏海も彼を強く抱きしめる。
まるで我慢しなくていいんだよ、とでも言うかのように。
自分にはもう彼女しかいない、夏海しかいない。
信太郎は心底そう思う。
すすり泣く彼の声を、波が密かにかき消してくれた。


