訴えるような彼女の言葉に信太郎はできない、と首を横に振った。
最後の最後まで「嘘」を綾乃に見せるわけにはいかない。
「ケチね、減るもんじゃないのに」
「…ごめん」
「もーほんとに今日は謝ってばっかりね、天宮くんは。そんなんじゃ将来結婚したら奥さんの尻に敷かれちゃうわよ」
綾乃の口から「尻」という意外な言葉が出てきたことに、信太郎は口元を緩めた。
「かかあ天下ってやつか。それはヤバいな」
「ヤバいわよ」
信太郎は微笑んだまま綾乃を見た。
その表情に彼女は満足したのか、再び目を細めてそして言った。
「元気でね、天宮くん」
「君も」
白くて細い指の腹で頬を拭うと、児玉綾乃はくるりと背を向け歩き出した。
彼女の、綾乃の甘い香りがふわっと辺りに漂う。
信太郎は彼女の後ろ姿を目で追った。
入り乱れる人の群れに、あっという間に彼女の小さな後ろ姿が消えていった。
まるで溶けていくように、消えていった。


