「どうして今になって綾乃、だなんて名前で呼ぶの?私はもっと早く呼んでほしかったのに」
「…ごめん」
「さっきあの人の前で見せてたような笑顔、一度も私の前でしたことないじゃない!」
「……」
手を伸ばせば触れ合える距離なのに、今はお互いがお互いをとてつもなく遠くに感じる。
「ごめん、本当に…」
雑踏の中、時が止まったかのように、ふたりは立ちすくんだ。
しかし、緊張した空気は彼が思っていたほど長くは続かなかった。
綾乃がたまらず「やだ、もう天宮くんったら」と言って笑ったのだ。
「謝ってばっかりじゃない」
信太郎はそれでも険しい顔つきのまま、目の前の美しい華奢な少女を見つめていた。
「ねぇ、お願いがあるの。私がフラれただなんて嫌だから、私が天宮くんのことをフッたことにしてくれない?」
「綾…」
彼の言葉を遮るように、綾乃は息つく暇もなくこう言った。
「私たちもうこれきりにしましょ、ね?もう無理でしょ、こんなことになって」
「……」
「今までありがとう」
「…ごめん」
彼女にこんなことを言わせてしまった、信太郎の中の申し訳なさと自分への腹立たしさから、声がかすれてしまう。
それがかえって綾乃の心を揺さぶる。
「お…おかしいわよ…フラれた人がごめん、だなんて。それはフッた私のセリフでしょ」
「ごめん」
泣き笑いの顔が信太郎を見た。
「ごめん」
「だから…」
「本当にごめん!」
長身の彼が突然頭を下げた。
腕を体の横にぴったりとつけ、腰を折る信太郎。
「天宮く…」
「でもこれだけは信じてほしいんだ。俺、綾乃といて楽しかった。これは本当だから!」
光によって七変化する彼女の瞳が、今日は曇っていて何色なのかわからない。


