ピアノの前に立って深く一礼してからゆっくりと顔を上げる。
慌てず、いつも以上に緩やかな動きを意識して。
けれどその努力もすぐ、水の泡となった。
「―――」
だって、そんなことになるなんて思わないじゃないか。
口が3つの音の形を作って、けれど音にはならなかった。
審査員席にバスキーがいたこと。
それはもちろん俺の心を大きく動かした。
だけどそれだったら自分の全力を出そうと思うだけだ。
誇らしい気持ちにすらなる。
でもその隣にいたのは。
バスキーの隣で俺をじっと見つめているのは。
「こま、だ」
きっと俺以外の誰にも聞こえなかった、彼の名前。
コンサートホールの反響力をもってしても拾うことのできなかった、俺の声。


