声なき声でありがとうの五文字を紡ぎ、玲も腰を上げた。
蘭子の後を追うように控え室を出ると能面に表情を変え、彼女が向かったであろう会場とは反対の方角に足を伸ばす。
少しくらい主役が遅れても構わないだろう。
自分に至っては準備に手間取った、で話が終わる。
かつかつと履き慣れないヒールを鳴らし、エレベーターに乗り、【△】ボタンを押して玲が向かう先。
最上階一室、和室スイートルーム。
今宵、自分達が身を預けるその部屋のカードキーを通し、玲はそっと扉を押し開けた。
明かりを付けるとやたら広い畳部屋が二部屋、顔を出す。
一部屋は八畳、もう一部屋は六畳ある、広いひろい一室。
この部屋の従業員は大層仕事が早いらしく、既に床の間となる六畳部屋には敷布団が敷かれていた。
ヒールを脱ぎ、それを靴箱に置かず、手に持って部屋に上がる。
二人分の敷布団に目を落とし、
「気が利かないね」
ここは一人分のみ敷いてくれるものなのでは? 玲は肩を竦める
床の間から居間に足先を変える。
短脚テーブルに着くため、そこに歩んでいたのだが、途中で足を止めてしまった
四隅に積まれている座布団の一部が不自然に盛り上がっている。
昼間は彼が部屋にいたため、そのことに気付く余裕がなかった。
スルーすれば良い話なのだが、なんとなく目を引いてしまったため、ヒールを畳に置き、おもむろに積まれた座布団を捲ってみる。
茶色い紙袋が出てきた。手にとり、口を開いて中身を確認。
数秒後、玲の能面が見事に崩れ、おおきな笑声が一室を満たした。
「豊福はほんっとっ、馬鹿生真面目で可愛いな。くくっ、勉強していたのか。ちゃんと準備までしてきているし」
まさか博紀が用意した、などとは露一つも思わないだろう。
「この本で勉強していたのか」
ぱらぱらっと実用書の中身を捲り、また笑声を漏らす。
本は挿絵付きだ。
絶対に赤面し、自分にはできないと身悶えていたに違いない。
そりゃそうだ、彼は生粋のヘタレなのだから。
受け身にはなりたくないような節は垣間見えるが、残念、自分は攻め身であり、攻め受けの相性は最良である。
これは今宵が非常に楽しみだ。
どれほど勉強できたのか、少々弄くってやってやりたい。
「ま、どう勉強しても僕が上なんだけどね。ごめん、豊福」
リード権は譲らないよ。
ぱたんと本を閉じ茶色い紙袋に本を仕舞う。
彼の名誉のために(そしてネタにするために)、座布団の下にそれを戻し、ヒールを持って今度こそ短脚テーブルへ。
ドレスに皺が寄らないよう細心の注意を払いながら、その場に正座してテーブル上に視線を留める。
テーブルには複数のカゴが置いてあった。
昼間はなかったものである。
覗き込めば、誰とも知らない鞄だったり、ポーチだったり、携帯だったり、私物がひしめき合っている。
カゴには番号が振ってある。
数字を確認するまでもなく、玲はそのカゴから一つのスマホを手に取った。
右のヒールを静かにひっくり返す。
小さなチップが出てきた。
本当に小さなチップで、それは爪ほど。
綺麗な正方形をしている。
玲はスマホのバッテリーカバーを開け、それをバッテリーと本体の隙間に挟んだ。
たったこれだけの作業。
されどこれほどの作業。
玲の指先は軽く震えた。
邪念を振りきるようにカバーを元の位置に戻した。
「―――…今から祝われる主役がこんなところで何をしているのだ?」
前触れもなしに聞こえた声はやけに平坦だった。
心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥るが、すぐに冷静を取り戻す。
ぱちんとカバーを閉め、
「覗き見とは悪趣味だね」
あくどい笑みを浮かべて顧みた。
いつからそこにいた? ちゃんと扉を閉めたことは確認したのに。部屋の入り口に目を向ける。
そこにはイブニングドレスを身に纏った好敵手(ライバル)が腕を組んで壁に凭れていた。
憮然と肩を竦め、
「カードキーくらい」
コネを使えば幾らでも入手できる。
所詮この世は金で動く社会なのだ。
憮然と言葉を返す鈴理にそうか、と素っ気無く返した。
同意に値する意見である。



