「空さま。少し、外を歩きましょうか?」
ある時、部屋に入った僕は彼にそう告げた。
私服姿で勉強していた彼は目を瞠ってくる。
ああちなみに、彼の着ている私服は僕のお下がりだ。
買い物は後日に回しているものだから、着る服がない。僕の古着で代用している。
「そ、と? ですか。だけど俺、謹慎中ですよ。安易に外出なんて」
控えめな言葉に従順さが垣間見える。
ずいぶんと精神的に参っているようだ。こういった人間には沢山の隙があり、洗脳しやすいことを僕は知っている。
「ずっとお部屋に篭られているでしょう? お体に毒です。挙式も控えていますし、少しは気晴らしをしなければ。なあに、館を散歩するだけです」
あまり気乗りしていない空さまを部屋から連れ出し、館の敷地内を歩かせる。
その際、花畑は呼ばずにおいた。
あいつを外に連れ出したもんなら最後、何をしでかしてくれるか分かったもんじゃない。
空さまにはあの少年は既に何度か散歩させていると伝えておく。
そうすれば一緒に歩き回りたいなど、ケッタイなことは言わないだろう。
館の外は変哲もない庭ばかりが広がっている。
けれど館の名が≪霞館≫なだけあって、ちょっとした名物があったりする。
空さまを中庭に連れ出すと彼は声を上げた。久しく聞く生気ある声音だ。
「凄いでしょう? 此処は会長のご内室様お気に入りのカスミソウ畑なのですよ」
豆知識として教えると、「淳蔵さまの?」じゃあ此処は御堂先輩のお祖母さまの屋敷なんっすか? 空さまが興味を示した。
「ええ。隠れ館にしていたみたいですが」
よく此処に御出でになったようですよ。
淡々と説明してやり、気晴らしになるでしょう? と一笑を零した。
「空さま。貴方が随分と知りたがっていたみたいなのでお教えしておきますよ。貴方がいる場所は、ベル・ブーランジェ・ミドウの隠れ館なのだと」
「ベル・ブーランジェ・ミドウ。それが御堂先輩のお祖母さまの名前なんですね。一面カスミソウ畑なんてよっぽど好きなんっすね」
そう言って空さまはカスミソウ畑に足を踏み込んだ。
消沈していた様子は何処へやら。小さな花達を見回し、思うが侭に歩んでいく。
カスミソウの由来は白い小さな花が霞のように咲くからだそうだ。
花言葉はなんだったかな。
興味が無いもんだからすぐに忘れてしまう。
一応知識として頭に叩き込んでいたのに。
微風に揺られている花達の中に何かを見つけたのか、空さまが駆け足になる。
彼が見つけたのは小さな丸テーブルに椅子。
忘れ去られたように放置されている。
雨風にさらされていたのだろう。
白のペンキが灰色がかっている。
「此処でお茶でもしていたんっすかね?」
壊れていないかどうか確かめて椅子に腰掛ける空さまは、テーブルに肘をついてカスミソウ畑を眺め始めた。
お気に召したらしく、そこから動こうとしない。
いつまでもカスミソウ畑を眺めている。
ふと空さまがざらついたテーブルの表面を手の平で撫でた。
彼はテーブル上に文章が書かれていると口にしている。覗き込んでみると確かに英文らしきものが書かれていた。
≪J'attends avec impatience le retour du printemps.≫
生憎、僕は英才教育を一切受けていない人間。これが英語なのかどうかなのかも判別がつかない。
けれど過度に勉強を強いられていた空さまは「フランス語だ」と容易に判断していた。
けれどまだまだ文は読めないようだ。
「辞書がないとわかんね」
見たこともない単語ばかりだと呻いている。
「博紀さん。紙とペンありますか? これ、写したいんですけど」
好きにさせることにした。
手帳のフリースペースページを破いて彼に万年筆を渡す。
豆のような字でそれを写してしまうと、大切にパーカーのポケットに仕舞った。
そしてまた風に身を任せ、カスミソウ畑と時間を過ごす。よほど気に入ったようだ。
まあ、あの一室よりかは断然マシな光景だろう。
少し試す気持ちでその場から離れてみる。
十分程度で戻ってくると、暖かな日差しに眠気を誘われたのかうたた寝を始める能天気な主がいた。逃げる素振りは見せない。
そんな空さまを揺すり起こして部屋に戻すと、彼はまたあそこに行きたいと願い申し出てきた。
これを機に僕は好きな食事や暇潰しの本等、欲しい物を尋ね、彼の中に踏み込む。
どんなことをされていても人は孤独には勝てない。僕の行動に不信感を抱きつつも、彼は基本的に話し相手が僕しかいないために口を開いてくれる。それが洗脳の一歩。



