【目付・七瀬博紀の報告】
空さまが霞館(かすみやかた)に移されて、早数日経った。
此処、霞館は会長のご内室様が使用されていたもので、今でこそ無人の館になっているが、手入れが行き届いており、我々お目付けも不自由なく過ごすことができる状況下だ。
あの会長がご内室様を想って手入れをさせているのかと思うと鳥肌が立つが、付き合い上、それはないだろう。
あの人は何かのため、それこそ利用のために定期的な手入れを指示している。今日も頭の中は会社の利害で一杯に違いない。
さて空さまの様子だが、僕や会長の脅しが随分堪えているようで朝から晩までとても大人しい。
一室に軟禁状態となっているのにも関わらず、文句ひとつなく部屋で過ごしている。
あの忌々しい少年(ガキ)とは別室にしてあるのだが、そいつと会わせろという言葉も出ない。
それこそあいつは会わせろだの、これは監禁事件だの、空と帰るだの喚いているのに、こっちは火が消えたように静かだ。
あまりにも煩いため、一日に数回会わせているが、空さまは上の空で相手の話に相槌を打つことが多い。すっかり消沈している。
週末に控えた婚約式のために外に連れ出して社交マナーを学ばせているが、それ以外は部屋で過ごさせている。
暇でしょうがないだろうに、飽きもせずマナーの復習をしたり、持っている参考書を開いて勉強をしたり、疲れたら外の景色を眺めたり。昼間なのにベッドで寝ていることもある。
それはそれは大人しいものだ。小癪な少年と違って。
これが従順になった人間の成りの果てだろう。
機械的に生活している空さまを見張るのは非常に楽なものだ。
我が儘一つ言わず、寧ろ此方の指示に従ってくれる。
生きたマリオネットのようだ。
飼われている人間と称してもいいかもしれない。
ただ注意しておかなければいけないのは、こういう人間は究極にネガティブになっていることが多く、“最悪の事態”を起こすかもしれないと警戒心を募らせておく必要性がある。
特に入浴の時間は警戒が必要で、折り戸越しに見張っておかなければいけない。
“最悪の事態”を引き起こせる一番の場所は浴室なのだから。
空さまは自分が常日頃から見張られているのだと自覚している。
だから浴室を出てくる際は、大抵タオルを腰に巻いているし、僕が脱衣所にいても驚きはしない。
「椅子を持ち込んでもいいんですよ?」
立ったままの見張りはしんどくないっすか? と苦笑いを零されたことがある。
そんな若き主だが僕に対する警戒心の丈は読めないところが多い。
目付けとして彼の身の回りの世話を焼いているけれど、不意に彼は僕を観察するような眼を見せてくる。
これは警戒している証拠だ。
諦めを言い聞かせている一方で、なにやら思案することもあるらしい。
庶民出の空さまだが、彼は勉学や人間性共に優秀な類いに入る。性格だけで判断していると痛い目に遭うだろう。
「空さま。風邪ひきますよ」
濡れた髪をそのままに、格子窓を開けて夜風に当たる空さまに声を掛けると例の眼が流される。
何を思って僕を観察しているのやら。
問答無用で彼の首に掛かっているタオルを奪い、それで頭を拭きながら窓辺から遠ざける。
「アイタタ!」悲鳴を上げる空さまに、「貴方は挙式を控えた身の上です」風邪をひかれたら僕の首が危ういのですが? 無理やりベッドの縁に座らせて、強めに髪の水気を拭っていく。
「もしかして故意的に風邪をひこうとしています? そうだとしても式には出てもらいますよ。体調不良で延期できるほど現実は甘くないですからね」
「そ、そんなこと言ってないじゃないっすか。アイタッ!
……も、もっと優しく拭いて下さいよ。
ちゃんと覚悟は決めていますって。逆らうつもりはありません。先輩を守れるなら、なんだってする。そう言ったじゃないですか」
なんだってする。先輩を守ることが今の俺のすべてだから。
僕に返しているようで、自分に言い聞かせているのだろう。
タオルの下で呪文のように唱えている空さまが垣間見えた。
きっとタオルの下では苦痛を帯びた表情を浮かべているに違いない。
安定した情緒が捩れ始めている。そう悟った瞬間だ。
忍び笑いを零し、「なら自分を大切にして下さいね」今は健康でいること、それが貴方のすべきことだと諭す。挙式後のこともある。体調を崩されるのは本意ではない。
相手にそう促すと、「はい」素直に返事する哀れな若き主がいた。
「気を、つけます」
これじゃあ、どちらが主なのか分からない。
そういえば一度だけ頼み事をされたことがあった。それは他愛も無い用事。
「博紀さん。便箋が欲しいんですけど。両親に手紙を書きたいんです。一応、育ててもらったお礼は言いたいですし」
本当の意味で自分の人生は諦めてしまったのだろう。
あれほど外部に応援を求めていたのに、その素振りさえ見せない。
一時は花畑と外に出て逃げ出してしまおうとしていたみたいだが、生憎その情報は僕にダダ漏れだ。
空さまが竹之内・二階堂財閥に忍ばせたUSBメモリがそれを教えてくれているのだから。
今、USBメモリは二階堂長男の手に渡っている。
けれど彼と会話している周囲の声である程度の行動は把握できている。
だからこそ、先手を打って玲お嬢様を取った。財閥支配をしたい会長にとって他の財閥との共栄は邪魔でしかない。
どれだけ高い目線で財閥界を見下ろしたいのだろう?
一度支配という蜜を舐めてしまったら病み付きになるのかもしれないね。中毒というべきかも。僕はその蜜を欲しているんだけどね。
どうしても蜜が欲しい。
そのためには周囲から固める必要性がある。進んでお目付けに候補したのだから機会は逃さない。



