―――…ノック、扉の開閉、すれ違う婚約者とお目付け。
ただの一度も振り返らず、隣の会長室に戻ってしまった彼女の背を見送ることしかできない。
そんな俺に博紀さんが声をかけてくる。
「随分情熱的だったようですね」
乱れた服装もそのままに、ソファーに寝転んでいる草食くんを見下ろしたお目付けの感想がこれだ。当然皮肉だと分かる。
いや皮肉りたくなるのも分かるっすよ。
俺のこの無様なヤラれっぷりを目にしたら。
「お嬢様のお心は掴んだみたいですね」
シニカルに笑ってくる博紀さんに力なく笑い、「悪趣味ですよね」俺みたいな男の何処がいいんだか、左の手の甲で視界を隠す。
まーだ腹と頭が痛い。
丸一日は酒の痛みに泣きを見るだろうな、これ。
荒い呼吸を繰り返していると、ソファーが軋んだ。博紀さんが縁に腰掛けたようだ。
「ご自分の立場は理解しましたか?」
外れたボタンを一つ一つ留めていく彼は、これが俺の運命(さだめ)だと諭す。
借金を負い、御堂家に肩代わりしてもらった時点で決まっていた筋書きなのだと笑声を零し、二度と淳蔵さんに逆らわないよう釘を刺してきた。
逆らうから現実に傷付き、守るべき人間すら巻き込んでしまうのだと言葉に茨を巻きつける。
傷口に塩と唐辛子を塗るような発言だ。
他人事のように思いながら手の甲をずらし、彼を流し目にする。
「お嬢様は貴方のことをお慕いしている。好意を抱いている人間に危害が及ぶのならば、彼女は奔走することでしょう」
さぞショックだったでしょうね、貴方の身悶えている姿に。
些細なことでも、恐怖心は余計な感情と被害妄想を生みます。お嬢様とて例外ではない。
「かれこれ五年、あの方のお傍にいましたがお嬢様は変わられた。貴方に出逢ってから」
貴方という人間に出逢わなければ、お嬢様は会長に逆らい続けるだけの人だった。
ああ見えて、会長はホトホト手を焼いていたのですよ。孫という存在に。
成長に連れて反抗心は増していった。
会長とて人間ですから、反発に思うことがあったことでしょう。
―――…空さま。玲お嬢様は貴方と出逢い、変わられたのです。良し悪し共に。
出逢いによって男性を愛する気持ちが芽生えた。
一方で弱点も増えた。
それが幸か不幸か、こんな事態を呼んだ。
この意味、お分かり頂けますか?
「貴方と出逢わなければ、お嬢様はお変わりない日常を過ごしていたと思いませんか?」
問い掛けに何も答えられない。
俺に出逢わなければ、御堂先輩は男嫌いのままだった。
先輩はひとりの男を好きになることはなく、淳蔵さんに逆らい続けていた。まったくもってそのとおりだ。
手の甲を元の位置に戻し、目を閉じて自分の感情と向き合う。
「空さま」ボタンを留め終わったお目付けが頭を浮かすよう命令してきた。言われたとおり頭を浮かすと、襟道にネクタイが通される。ネクタイを締めてくれるようだ。
「貴方の運命は変えられない。無駄な抵抗をやめることですね」
注意を促された。
まるで俺とイチゴくんの起こしていた行動を察しているよう。いや知っているに違いない。この人はきっと。
「玲お嬢様を守りたいですか?」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
手の甲を下ろしてうんっと頷く。彼の問いが希望にすら思えた。
「なら余計なことは忘れることです」
今立たされている現実だけを見据え、他のことはすべて忘れることだと博紀さんが助言してくる。
「貴方は借金を背負い、御堂家に肩代わりしてもらった身分。それを忘れてはなりません。
そして、あの方を変えてしまったの誰でもない空さまです。責任を取り、玲お嬢様をお慕い下さい。身も心もお嬢様に捧げれば、少しならず彼女も満足することでしょう。男装していても彼女は一端の女性、一人の男性に愛されたい生き物なのですから」
「どう、すればいいんですか?」
子供の俺にはよく分からないと首を傾げる。
「難しいことは言っていません」
彼女を好きになればいいのですよ。
見慣れた優しい笑顔が向けられる。
久しく見た気がした。
博紀さんのその顔。



