先輩と目が合う。
息継ぎの合間に笑声を漏らしてくる彼女は、「とてもたどたどしいね」ご大層な感想を述べてきてくれた。
それって単刀直入に言えば下手っぴってことっすか?
……、……、……じ、じ、じ、自覚ありっすよ!
どーせ俺は今まで女にリードされてきた情けねぇ男っす!
だからいつまで経ってもキスは下手くそなんっすよ!
練習する暇もなかったんっす!
へんっ、悔しくなんてないっすからね!
下手くそ上等っす! 息継ぎとかべらぼう下手くそっすよ!
でも見てろっすよ。
いつかリード……、は、させてくれないだろうから、せめて巧みだと言われるよう練習してきますよ!
二度目っすけど悔しくなんてないっすからね!
熱を帯びた舌を懸命に動かしていると、舌先を相手に食まれた。
ビクッと肩を飛び上がらせてしまう。なおも相手と触れ合おうとする頑張りだけは自画自賛したかった。
快楽は遠い。
触れ合っている彼女の気持ちは更に遠い。
相手にゆっくりと押えられ、ソファーが軋む。
間に挟まれている俺の逃げ場はない。
交し合うキスは深くなる。
呼吸が呑み呑まれる。
元々余裕の「よ」もない俺と攻め女を自負している先輩のテクニックの差は明らかだ。
嗚呼、くそっ、下手くそな俺と違って巧みだから腹が立つ。
頑張って張り合っているのに相手にすらされていない。
酸欠になりかけていた俺の体を軽くまさぐり、ふっと離れていく唇が悪戯げに右の耳たぶを食んできた。
しまった、思った頃には時既に遅し。
がくんと力が抜けて、ソファーに沈んでしまう。
これだから攻め女は嫌になる。
男の自尊心をことごとく砕いてくるんだから。
肩で呼吸をする俺に、「僕の勝ちだ」僕を攻めるなんて二十年早いよ、プリンセスの表情が和らいだ。
「まさか豊福が頑張ってくると思わなかったよ。とても下手くそだったけど」
喧しいっす!
自分で下手くそと言う分にはいいっすけど、他人から言われると気にするタイプなんっすからね。俺!
ついでに“とても”は余計っす!
「可愛かった。本当に……ねえ豊福。週末に賭けが終わるね」
彼女は話題をかえてきた。
賭け。それは鈴理先輩との賭けのことっすか? 今、話すべき話題っすか、それ?
訝しげな眼を投げると相手が柔和に綻んできた。
瞬間、勢いよく首に噛み付いてくる。びくんと体が震える。
「本当はね。君に好きな人だと言ってもらいたいんだ」
瞠目。
ちゅっ、首筋に痕を付けてくる彼女と目が合った。
「守りたい人だけじゃ」もう満足できない僕がいる。微笑みに宿る切なさに俺は言葉を失うしかない。
「僕等の関係は偽りだ。嘘と欲望と条件で作られた脆い関係なんだ。僕達の気持ちを差し置いて、環境だけが出来上がっていく。気持ちだけが置いてけぼりだ。嘘を本当にするには本気でぶつかるしかないじゃないか」
鈴理が本気で君にぶつかったように、僕もぶつかっていかないと、いつまでも君は振り向かない。環境だけなんて虚しいだけだ。心も欲しいんだ、心も。
片思いでも未来を歩めたらいい、そんなの建前だ。
本当は、本心では、素では、君に好きだって言ってもらいたいんだよ。
そんな僕だから、あのクソジジイに君を人質に取られたら……、どうしていいか分からなくなる。
本当は不安でしょうがないんだ。
大丈夫、ジジイの気を良くしてみせるさ。
このままあいつの言うとおりにさせるのも癪だから、唾を吐きかけることはしてやりたい。
「僕は君の王子でありたい。だから守るよ。君が僕を守ろうとしたように」
「せん、」
「ずっと傍にいて欲しい。だから僕はジジイの下に行く。大切だから、守りたいから、好きになってもらいたいから」
公演の日。豊福は僕のために走ってきたよね。その時、君は僕になんて言ったか憶えている?
豊福はね、“貴方がこれからも同じ行為を繰り返すのなら、俺もそれだけ、同じことを繰り返します。それが今の、貴方に対する俺の気持ちなんです”と言ったんだよ。今度は僕が君に返す言の葉だね。
「少しだけの辛抱だから。鈴理よりも早く救い出すから。鈴理より早く迎えに行くから、その時は―――…待ってて。豊福」
明かりすら点いていない部屋の向こうで彼女が綺麗に微笑む。
泣きたい気持ちに駆られた。
む、りだ。
今の俺じゃ、彼女は止められない。
誰よりも守りたいのに、その気持ちのせいで彼女は決意してしまったのだから。
どうしてこうなった。
俺は彼女を守りたいだけだった。
俺以外の男を選んで幸せな未来を選んでもらっても構わなかった、の、に、彼女は俺と堕ちる選択肢を取った。
この男装少女は俺が反対しても聞かないだろう。
淳蔵さんのためになんでもする気だ。
何より俺を救い出すために彼女は、彼女は。
嗚呼―…この展開だけは避けたかった。
「ごめんなさいっ。俺のせいでっ、おれのせいでっ」
結局、人質に取られてしまった自分の不甲斐なさを呪う。
やっぱりあの時、彼女と婚約などしなければ良かったんだ。
そうしたら彼女は淳蔵さんの言いなりになんかならなかった。こんな道を選ばなかった。
「違うよ。謝るのは僕の方だ」
君は何も悪くないよ。
本当に何も悪くないんだ。でもね、やっぱり君が好きなんだ。
「君が堕ちるなら、僕も一緒に堕ちる。ごめんね、君の気持ちに応えられなくて」
そう言って御堂先輩は俺の腕から抜け出し、上体を起こして、そっと手を取ってくる。
「姫、僕とひと時の別れの挨拶に口付けをして下さい」
双眸が俺の情けない顔を映してくる。
彼女に倣って上体を起こし、取られた手を握り返す。
今の俺にできる精一杯の虚勢だ。止められないと絶望する俺にできる、精一杯。
「貴方の迎えをっ、お待ちしております。俺の王子様」
これは淳蔵さんが用心深く未来の逃げ道を塞いだせいか。
それとも、俺が彼女の好意を受け入れようとしたせいなのか。
子供の俺達には何が悪かったのかすら見当が付かない。ただ婚約者としての日々を送っていた筈なのに。
交わした触れるだけのキスはやけにしょっぱかった。



