鋭利ある針でシャツを刺し始める久仁子に、裕作は三点リーダーを醸し出した。
女の怒りは粘着質が高いものである。
ああ、それと、どうでもいいがそのシャツは自分のシャツなのでは?
穴が開かない程度に刺して欲しいと願わずにはいられない。
逆鱗に触れないよう言動には気を付けよう、裕作が思っていると電話が鳴った。
ハタッと我に返った久仁子が針刺しに針を戻し電話に出る。
時刻は十時半、こんな時間に電話をしてくる相手は一人しかいない。
「あら空さん」
久仁子の弾んだ声が裕作の鼓膜を振動した。
やっぱり、微笑を零して肩を竦める。
どうやら息子が自分達のことを心配して電話をしてきたらしい。
いつものことだ。
驚くべきことではない。
ちゃんと食べているか、寝ているのか、と聞かれたのか、「食べて寝ていますよ」貴方に怒られてしまいますからね、嬉しそうに妻が返している。
受話器が裕作に回ってきた。
箸を置いて電話に出た裕作は、元気かと息子に尋ねる。
『元気だって』大丈夫だよ、変わりない息子の声が届いて裕作は安心した。
妻にはああ言ったが、裕作も平日の息子の様子が気掛かりだったのだ。元気そうならなによりだ。
「玲さんとは上手くやっているかい? 婚約しているとはいえ、軽はずみなことは避けるんだぞ」
『俺をなんだと思ってるんだよ父さん! 俺はしないよ……、俺は』
俺、は?
裕作は些か不安を抱いてしまう。それは裏を返すと相手はする、ということなのだろうか?
『それよりも、ちょっと日程を聞いてもいい? 源二さんがまた食事会したいらしいんだ』
やや焦った声音で話題を切り替える空に便乗し、「食事会を?」裕作は内容を聞き返す。
『うん。なんでも親睦を深めたいんだって。この前の食事会はゆっくり話しもできなかったから、どうですか? って源二さんが言っているんだけど』
「親睦を? そうだな。以前の食事会は談笑という談笑もなかったし。母さんにも伝えておくよ」
『ありがとう。源二さんや一子さんも喜ぶよ』
『ちなみにいつ頃を予定『うひゃあ!』……、空?」
突然聞こえてきた悲鳴に裕作、硬直である。
『あ、ごめん』なんでもないよ、と息子が言ってきてくれるが、次の瞬間、またもや悲鳴。
『変なところ触らないで下さいって!』『君の腰がここにあったから』『親と電話中なんですけど!』『素敵な声を聞かせられたな』『ひ、酷いっ、あ、だから』『電話はいいの?』『泣くっすよ俺!』『鳴くだろ?』『もうやだ先輩!』
………。
ギャーギャー聞こえて来る受話器に遠目を作った裕作は、ぎこちなく久仁子と目を合わせる。
「久仁子。婚約に不安を覚えてしまったよ……、孫をこの腕に抱く日も早いかもしれない」
「……おばあちゃん、と呼ばれる日も近いんですね」
「……あの様子じゃ空は奥さんに敷かれるタイプだな。あっちの意味でも」
「え?」
「いや、なんでも」
沈黙が下りる。
相変わらず受話器から聞こえる声は喧(かまびす)しく、テレビから流れるバラエティ番組は観客の笑声で満たされている。
その異様な空間の中で、大変な誤解をしてしまった豊福夫妻であった。



