はぐれ雲。


彼女は今、この上もなく幸せだった。


<ありがとう。でも…>

「だめよ」

博子は首を小さく横に振ると、亮二の胸から顔を上げた。

「だめよ、そんなこと」

彼は何も言わずに、涙で濡れたそんな彼女を見た。

「だって…」

博子の潤んだ黒い瞳が揺れる。

自分には加瀬達也という夫がいるのだ。

彼と共に生きる、そう誓ったのだから。

「私はあなたの気持ちには、応えられない」


いつもは厳しく引き締まった彼の眉間も、今は柔らかく穏やかだ。

亮二は優しく微笑むともう一度博子を抱き寄せ、いとおしそうに髪を撫でた。

「いいんだ、それでいいんだ」

優しい、本当に優しい声だった。


その声に、彼女は思わず彼のシャツの胸元を握り締めた。

すると、まるで自分の心を握りつぶしているような、そんな痛みが彼女を襲う。


「おまえには、そばにいて守ってくれる人がいるだろ」

「……」

彼は達也のことを言っていた。

「それは俺の役目じゃない。だからおまえはこれから先、その人のことだけを見て、その人のことだけを想えばいい」

「新明くん」

「何があっても、その人からはぐれるな!」

彼の言葉に、博子は声を上げて泣いた。