はぐれ雲。

「会いたかったよ、俺だって」

そう言うと、持っていたアヒルのおもちゃを顔に寄せた。

「美咲に、会いたかった」

「達也さん」

博子は彼を抱きしめた。

「本当に、いい名前ね。美咲…。
生まれてきてくれてたら、あなたみたいに優しい子になってくれてたわね、きっと。ね?達也さん」

二人は抱き合った。

「素敵な名前をありがとう」

やっと、彼女は彼と心が通じ合ったような気がした。



次の朝、博子は実家を出た。

もう一度、彼とやり直そう。
彼が自分を必要としてくれるなら、全てを彼に捧げよう。

亮二とは…
<もう会わない>


官舎に通じる坂は、冷たい風が駆け降りてくる。

灰色の雲が太陽の光を遮ると、あまりの寒さに思わず身をすくめた。

官舎の庭では寒空の下、相変わらず輪になって奥様会が開かれていた。子どもたちを幼稚園に送り出した後のようだ。

博子は唇を噛み締めると、一歩を踏み出す。

「おはようございます」
好奇の目が向けられる中、彼女は颯爽とその輪の横を通り過ぎた。

「まぁぬけぬけとよく帰ってこれたものよね」

「加瀬さんのご主人、地方にとばされるって噂よ」

「刑事を外されるのも、時間の問題よね」

「男ってああいう、守ってやらなきゃっていうタイプに弱いのかしら。女であることを武器に使うなんてねぇ、やだやだ」

心無い言葉が飛び交う。

<負けない、絶対に負けない>

達也の苦しみを思えば、なんてことない。

そう言い聞かせ、三階の部屋の鍵を開けた。

締め切った部屋の空気は澱んでいた。

キッチンの流しには、コンビに弁当の空き殻や缶ビールが無造作に置かれ、使った食器も溜まっている。

リビングのソファーには洗濯物の山ができ、寝室には今しがた達也が抜け出たかのような形のまま、布団が敷きっぱなしだった。