Fahrenheit -華氏- Ⅱ


瑠華の顔をまともに見られなくて、俺は出社して早々「じゃぁ“あおぞら建築”さんの所に行ってくる」と言って、ホワイトボードに書き込んだ。


「行ってらっしゃい」と瑠華に見送られたが、それに返事ができたのかも覚えていない。


下に向かうエレベーターを待って、扉が開くと


もっとサイアク。


中に乗り込んでいたのはマドレーヌ瑞野さんで


「お……おはようございます…お疲れ様です…」とぺこりと頭を下げる瑞野さん。


「お、おはよ~…」俺もぎこちなく挨拶。昨日の今日でキマヅイが、俺がこのエレベーターに乗らないともっとキマヅイだろうし、不自然だ。


上(会長室)に向かうと言い訳もできたが、ビジネスバッグを持っている辺りその辺の言い訳もできないし。


結局、エレベーターに乗り込み『1』のパネルを押そうとしたとき気付いた、すでに『2』のパネルが点灯している。


瑞野さんは2階に用があるみたいで、少しばかりほっとした。


何となく瑞野さんの前に立つ形になった俺に


「……ゆ…郵便物の誤配で、人事部に届けようと思って…」


とキマヅイ空気の中瑞野さんが切り出した。


「そっか…」としか答えようもない。


何と答えていいか、何が正解で何が不正解なのか。


分からない。


エレベーターが下る時間がやけに長く感じられた。


無言の空間が辛い。


やがて


「ハッくしょん!」
「くしゅんっ」


二人して同じタイミングでくしゃみが出た。


思わず後ろを見やりと瑞野さんは両手を口で覆い、俺たちは初めてまともに目があった。


「ご、ごめんね~昨日、雨の中…」切り出すと


「いいえ、こちらこそ…」瑞野さんは言いかけ、その節に瑞野さんが着ていたアプリコット色の薄手のV開きニットから、ネックレスがぶら下がっているの気付いた。今日はゆるく髪を後ろでまとめていたってのもある。


そのネックレスがしっかりと見えた。


細い品の良いゴールドのチェーンにそのペンダトトップと言うべきか、


少しねじれたわっかのシンプルなデザインの―――指輪―――がぶら下がっていて…


前にも見たことがある。


あれは―――……


と、考えていると、ふと記憶の回路が繋がった。


そうだ……あれは二村が首からぶら下げていたのと同じデザインのリングだ。ただしこちらはレディスものなのか二村のより小さいし、色も若干ピンクが掛かっている。


俺は再度瑞野さんを振り返った。


瑞野さんは睨まれたと思ったのだろうか、びくりと肩を震わせた。


「あの……昨日は…ご…」


と言いかけたところで瑞野さんの目的の階に到着して


「…ご、ごちそうさまでした」と慌てて俺の横を素通りしていく。


瑞野さんは―――


瑞野さんの心の中に居るひとは誰なのだろうか―――


花とヴァニラと……ほんのちょっと雨の匂いが混じった香りだけ残して瑞野さんは降り立っていった。