恋蛍~クリアブルーの風に吹かれて~

逃げようと思えば簡単にできるはずだった。


でも、動くことができなかった。


「陽妃」


近寄って来る海斗の迷いのない視線が、あたしの体の自由を奪った。


来ないで。


そう思った時にはもう、海斗が目の前に立っていた。


「見たんか」


本当に濁りの無い真っ黒な瞳。


あたしは返事もせず、その瞳から逃れたい一心で、あからさまに顔を反らした。


横殴りの雨があたしの頬を叩く。


「……そうかね」


雨に紛れて、溜息交じりの声が降って来た。


「見よったか」


ああ。


もう、誤魔化せない。


顔を反らしたまま小さく頷きを返したあたしに、雨が打ち付ける。


足がすくんだ。


「……わっさん(ごめん)」


罪悪感たっぷりの感情がこもった低い声。


それは、今、一番聞きたくなかった音なのに。


謝ってほしくなかったのに。


謝られるくらいなら、いっそ、開き直ってくれたほうがずっとマシなのに。


「わっさんね……陽妃」


そうしたら、海斗に文句のひとつでも言えるのに。


そんなふうに素直に謝られると、逆に何も言えなくなるじゃない。


そんなとこに隠れてなにしてたんだよ、って。


隠れて見るなんてヤラシイな、って。


開き直ってくれたら、いいのに。


ずるいやつだな、って。


「ごめん」


そんな、捨てられた子犬みたいに酷く傷ついた目で真っ直ぐ謝られたら。


惨めになるじゃん。


「やだな、なんで?」


あたしはへらへら笑いながら海斗を見つめ返した。


でも、あきらかに引き攣ってしまったのが分かる。


「なんで海斗が謝るの?」


糸か何かでツンと引っ張られたように、頬が動いてしまう。


「海斗が……謝る必要……なくない?」


「……え?」


海斗の瞳が黒く潤んでいる。


「だってそうじゃない?」


ふふっと笑いが漏れて、あたしはふいっと顔を反らした。


白いしぶきが上がるほどの強さで、雨が地面を叩いていた。