脳をちょっと使っただけでひどく疲れた。

 目をつぶって眠ろうとしたとき、病室出入口の白いカーテンが揺れた。

 誰かが入ってきたらしい。

 きつい香水のニオイがして予想はついた。

 挨拶代わりに母親はいつも同じ台詞を言う。
「具合はどう?」

 おれは頷くことしかできない。そんな自分を腹立だしいと思わない自分に嫌気がさす。

 母親は粗末なパイプ椅子に座り、買い物袋からリンゴを取り出した。そして果物ナイフで皮をむきながら静かに語り始めた。

「昔々あるところに悪戯好きで好奇心旺盛な王子様がいました」

(おいおいやめてくれよ)

 一人部屋でよかったと心底思った。

「王子様は役人たちの仕事ぶりをチェックするためにお忍びで城下町のお役所に勤めることにしました。それは犬や猫の遺体を片付けるとても辛いお仕事でした。

 クリスマス・イブの夜、王子様がたった一人で残業していると老人が犬を連れて処分してほしいとやってきました。ところが王子様は犬を逃がしてしまいました。

 怒った老人は持っていた千枚通しで王子様を刺しました」

 おれに起った出来事をわかりやすく、幼い子供に絵本を読み聞かせる感覚で話してくれるのは刺激を与えたくないという配慮かもしれないが事実と少し違う。

 まず、おれは王子様ではなく郵便局員のせがれ。

 千枚通しを持っていたのはおれ。

 なんのためにそんなものを……使い方によって他人の命を奪い、己を破滅させる柄のついた大きな針は人生を変える力がある。

 きっとポケットに入れておくことで安っぽい優越感に浸っていたのだろう。

 もう子供じみたことはしない。

 生まれたばかりの赤ちゃんが病院から人生をスタートさせるようにおれも病院から生まれ変わるチャンスをもらったと思いたい。