「恐らく長州の奴らが火を上げているんだろう。」
「え?何で?」
「見てみろ、火が上がってるあの辺りは伏見で、長州藩邸があるところ。幕府は長州の追い出しに成功したが、長州の奴ら、逃げる時に火をつけて行ったんだろう。」
この時雨の推理は実は正解で、国賊の汚名を返上するべく京に攻めてきた長州の追い出しに成功した幕府。
それに手を貸していたのが薩摩だった。
薩摩の加勢により負けてしまった長州は京から脱出する際、長州藩邸に火を放っていったのだ。
また、会津勢も長州藩士が隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は大火に見舞われた。
北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。
この大火は後に“どんどん焼け”と呼ばれるものとなり、戦いが蛤御門で会津・桑名藩士と禁裏で薩摩藩士とぶつかったことから後に“禁門の変”または“蛤御門の変”と呼んだのだった。



