彼は、本当にここのパンには目がない。

気のいい夫婦の出す、この繁華街にあるパン屋は、いつも店にパンが足りなくなってしまうほどに繁盛している。

いつも、夕刻にならなければ起きないハーリーは、滅多にここのパンにありつけないのだった。


“メアリーのパン”では、新商品が売り出される前には、パンを買ってくれた客に宣伝と称し、一緒に新しい商品をサービスで渡している。常連客の間でも大評判のサービスデーにここに来るなんて!


ハーリーは今、丁度給料日前で、懐状況も苦しい時期だったが、今日はうまい具合にメアリーに救われた。


メアリーは、ハーリーの背中を気安く叩き、店へと誘導する。メアリーが店の扉を開けると、何とも言えない程に美味しそうな、焼きたてのパンの香りが広がってきた。


焼きたての香ばしい香りや、メアリー自慢の、ジャムの甘い香り。ハーリーは、食欲を沸き立たせるようなパンの香りに、鼻をヒクヒクとさせ、唾を飲み込んだ。


「待ってておくれ。手を洗って来るから」


メアリーはそう言って、店の奥にあるもうひとつの扉を開けた。向こう側は厨房になっているらしい。


「あんた、ハーリーが来たよ。焼きたてのフィデッシュを頂だい」

「何、ハーリーが?! ようし、では待ってくれ、たった今焼き上がる熱々の物を持って行くから」


厨房から、メアリーと旦那のエヴィの会話が聞こえて来る。

ハーリーは、このパン屋“メアリーのパン”が、ペルソワの繁華街に店を出してからは、ここのパンを数えるくらいしか食べたことがなかった。


もともと下町通りにあった“メアリーのパン”は、現在、娘夫婦が後を継いで、店を続けていると聞くが、下町通りから部屋を越してからは、そちらに顔を出すことは、一切なくなった。

ハーリーは、繁華街には珍しく家賃の安いアパートに、今は住んでいた。


この街が繁華街として栄える以前からある、古くて風呂のない、狭苦しい、雑な佇まいだが、金には文句は言えない。どうせ独身男の一人住まい、仕事先にも近く、これと言って不自由はなかった。