陽は落ちた。
うす紫の宵が、矢楚も広香も、街ごと包んで夜へ連れ去ろうとしていた。
新月かもしれない。月が現われない空に、金星だけが美しく輝いている。
矢楚は唇をわずかに開いて、少しだけ広香の手の甲を吸う。
広香が緊張に体を強ばらせたのを気配で感じ、脳の中で、スピードを落とせ!と自制心が司令を出した。
矢楚は唇を離すと、そこへ優しくもう一方の手を載せ、
「ごめんね、広香。スピード違反だよね」
と静かに微笑んだ。
重大にとらえすぎないで。少しずつ、関係をシフトさせたいだけなんだ。
そう伝わるように、爽やかに。
広香は、小さく首を横に振った。そうして空に目をやり、張り詰めた息を吐き出すように、深く呼吸をした。
「矢楚、金星が……綺麗」
「ぴかぴかしてるね」
「真っ暗な海で光る灯台みたい。こんな、月もない夜には余計に」
そう言って黙った広香の瞳は静かで、でもぴかりとした光りが小さく宿っていた。