黒いスーツのままだった。
片手をポケットに入れ、柔らかな風に吹かれている。
広香の足音に振り向いた。
フォーマルなスーツに包まれた、逞しさ。華やかで精悍な面立ち。
ため息が出るほどの、男らしさと色気があった。
広香は走りだしていた。そのまま矢楚の体に抱きつく。
矢楚は少し身を屈めて広香のお尻に腕を回し、
持ち上げるように抱いて目の高さを合わせた。
二人の腰はぴたりとあわさり、広香の足は宙に浮いた。
互いの目の中に、自分が見えた。
「mi luna」
そう言って、矢楚は広香の額に額を合わせ、目を閉じた。
「もういいかい」
広香はかすかにうなずいて応えた。
「もういいよ」
矢楚は吐息を漏らし、目を開いて広香のくちびるをみつめた。
胸が軋む。
しかし矢楚はくちびるを合わせることはせず、
額を離すと、魅入るように広香を見つめた。
そしてその頬を、広香の頬に寄せる。
耳と首筋にかかる矢楚の吐息。
広香は、矢楚の髪に指を入れた。
キスして欲しかった。


