広香は、誰も聞いてはいないのに、声を潜めて矢楚に尋ねた。
「どうして、泣いてるの?」
矢楚は目を伏せて、困ったように笑って言った。
「……嬉しくて」
「何が?」
「分かんない。……ただ、嬉しくて」
高い頬に、涙の通った道。
体が勝手に動いていた。
広香は、矢楚の頭を引き寄せ、その頬にくちづけた。
貴い人の足元に跪(ひざまず)くように、美しいものにひれ伏すように、
その涙の跡にくちづけた。
睫毛が触れそうな距離で、矢楚が呟いた。
「なんで」
信じられない、そんな口調だった。
「あ……きれいだったから」
矢楚の目を覗き込み、その驚きを見て初めて、広香も我に返った。
私、何てことをしたの。
矢楚は、頭に回された広香の手を解き、身を起こすと、目を硬くつぶった。
胸のうちの嵐に立ち向かうように、矢楚の体が少し揺れた。


