矢楚は掴んでいた腕を放すと、改めて手のひらを広香に差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
広香はそこに自分の手を重ねた。
「やっぱり、温かい」
広香が言うと、
「やっぱり、冷たい」
と矢楚は笑った。
緊張はなかった。性的な高ぶりにも悩まされない。
夜の海が、見えぬ間に心のざわめきを飲み込んで、連れ去ってくれたのかもしれない。
広香はそう思った。
そして感謝した。
手を引かれて、浜を歩く。真っ暗な海に向かって。
波音が大きい。砂に足が沈み込む。その音は波に消される。
しばらく黙って、二人、黒い海と幾重にも走る白い波を見ていた。
「辛かった?この二年」
広香は矢楚を見上げた。ランプの光が届かない、その顔を。
「そうだね、父さんが逝ったばかりの一年は、特に。
地べた這いずり回って、のたうちまわってたよ。
カタツムリの速度で、抜け出たかな」
そう。
広香はまた波を見つめた。


