「柴本さんは、自分を買い被り過ぎだよ。
奥さんとこんな大きな子もいた立派な大人の男だよ?
厳しいプロの世界に一度は生きた人。
柴本さんが死ねって言っただけで、そうしたんだと思う?
大人を舐めちゃいけないよ」
木綿子の言葉に、亜希は何の反応もしなかった。
鳥肌が立つような惨たる苦悩にただ身を委ねている。
ずっと黙っていた広香が口を開いた。
「矢楚。
お父さんは、亡くなっても生きている。矢楚の中で。そうでしょ。
生きていたときより、もっと胸の深いところに住みだしたんじゃない?」
矢楚は、吸い込まれるように広香の目を見つめた。
湖だ。
水面に月光を宿してゆらめく、さざなみが見える。
「矢楚を責め苛む存在として胸に生きるなんて、
お父さん、それじゃ、可哀想だよ。
矢楚の人生は続くの。
お父さんは、生きるのに疲れてしまっただけ。
矢楚と柴本さんを不幸にしたくて命を絶ったのではないの、きっと。
だから二人は、幸せになるの。
お父さんのために、そうするの」
亜希が嗚咽を漏らした。
広香の目の中のさざなみが、矢楚の胸にも伝播する。
それは、祈りだった。
矢楚は、ただ、無性に思い切り駆け出したくなった。
生きる限り、いかなる終わりにも、朝(あした)はくる。
そのまだ見ぬ朝(あした)に向かって、いまはただ一人、駆けてみたい。
そうして迎えた朝に、このさざなみが見えたなら。
見えたなら。
矢楚は、ゆっくり目を閉じ、その先の想いを胸の深いところにしまった。