通話は切れた。
矢楚は携帯を手にしたまま、走りだす。
広香が乗るバス停とは反対の方へ。
二分ほど走って、家に電話を掛けた。
「あ、母さん。
うん、走ってたんだ。
昨日のとこにまた拾いに来てくれる?
そう、ブィットリアにそのまま送って。
荷物は、リビングにまとめて置いてあるやつ。
うん、ごめんね」
もう、広香を盗み見たいという欲求から解放されていた。
『明日』
広香がくれたその言葉が、廃墟のような矢楚の胸にすとんと落ちて発光した。
安堵にも似た穏やかな気持ちが、胸の底に溜まっていく。
明日。
矢楚は恋人の名を呼ぶみたいに、そっと呟いた。


