矢楚は、どこへ連れて行くつもりだったのだろう。
少なくとも、今日広香が話そうと思っている話は、こんなアパート前でできるものではなかった。
「行きたい。連れていって」
自分でもはっとする程、思い詰めた響きになった。
矢楚は、矢楚らしい差し込むような眼差しで広香の目をしばらく見てから、
不安をふっきるように明るく言った。
「少し、陽に当たったほうが元気も出るか。
よし!あったかいうちに、行って、帰ろう」
矢楚は、自転車を路地に向けると、さっとまたがって広香を振り返った。
「乗って」
広香は頷いて、後ろに座った。
そこにはバスタオルがヒモでしっかり括り付けてあった。
広香のおしりが痛くないよう、矢楚が急ごしらえしたのだろう。
あっという間に自転車が滑りだす。
「重くない?」
「鍛えてますから。
深くつかまって。絶対、落ちないでよ」
あっという間に加速する。
広香は矢楚の硬い背中に頬を寄せ、引き締まったお腹に手を回した。
矢楚の胴体に抱きついたのは初めてだったけれど、
ジグソーパズルの隣り合わせのピースがぴったりとはまったみたいに、
とても自然だった。
胸は痛いけれど、それ以上にほっとする。
ぐんぐん進む。
広香はただ座っているだけで、冷たい空気の中を疾走している。
目を閉じた。
これからの辛い時間を少しだけ忘れ、広香は矢楚と春風になった。


