広香からは、とても切れなかった。
気付けば、両の手で受話器をぎゅっと握り締めている。
「矢楚」
『ん?』
「切って」
『うん』
矢楚はそれでも切らない。矢楚の呼吸の音がかすかに聞こえた。
広香は堪(たま)らず促した。
「矢楚」
『だって。もったいないから。
気持ちいいんだ、広香の声が』
胸が締め付けられる。
矢楚、もう、やめて。
私、矢楚が好きだよ。
涙が溢れる。
助け船のように、ブーっという予告音が流れた。
『あ、結局時間切れだし。じゃあ、確認ね。
寒い格好しちゃダメだよ、マフラーとか手袋してね。それと、スニーカーがいいよ』
広香は、話し口を手で塞いで鼻をすすった。
矢楚が服装の細かい指示を出している間に電話が切れた。
広香は、ツー、ツーと鳴る受話器を置いた。
これが、きっと最後の電話。
そう思うと、嗚咽がもれた。


