「中尾先輩! 話が」

「無いよ、話なんて」

 間髪入れずそう返されて、あたしは何も言えずに持っていた鞄を握りしめるしかない。
 廊下にはあたし達しか居なかったけど、あたしは穴があったら入りたかったし、できるなら走って逃げ出したかった。

「……」

 中尾先輩は、あたしが何か言い出すんだろうと待ってるに違いない。沈黙で攻撃されているようだった。だって目の鋭さはさっきと変わってなかったから。

 頭の奥で声がする。「冬海が居るからって言ってきて。ちゃんと」そう、冬海の声がする。そうだね……ちゃんと言わなくちゃ。謝らなくちゃ。

「先輩……話、聞いてください」

「聞く必要、無いよ」

 冷たい声だった。いつも「幸田さん」と声をかけてくれた先輩の声、温かかったことしか覚えていない。

「お願いします」

 あたしは頭を下げた。

「つき合ってるんだろ、アイツ。俺には返事しないで。それが答えなんだろ」

「……中尾先輩」

 悲しみと怒りが混ざった声。静かな廊下の壁や床に吸い込まれる。

「……なんなんだよ。キス、してるところなんか」

 やっぱり、見ていた。今さらだけどそう思って、今度は背筋が冷たくなった。中尾先輩は喰いしばったような口元から言葉を出す。

「そんなの見て……普通に笑って、キミと話せると思う……?」

 鞄を力いっぱい握りしめる。恥ずかしさと恐怖で、体が不安定になった。

「俺、そんなに出来た人間じゃないよ」

 その言葉が終るか終らないかのうちに、中尾先輩はあたしを置いて去って行った。上靴の音は遠ざかっていく。

 あたしは、中尾先輩に何を説明して、どうしてもらおうとしたんだろう。それさえもよく分からなくなってしまった。脱力感。先輩の目が、怖かった。何を言って良いのか分からなかった。
 人を傷つける、それがこういうことだと分かった気がした。中尾先輩の心に、あたしはどうやって償えば良いんだろう。それが分からない。

 さっき、中尾先輩の声を吸い取った廊下の壁と床は、今度はあたしのことも吸い取ろうとしているかのように思えて、しばらくそこから動けなかった。