【終わりを望む独白】



“終わり”を別の言葉に言い換えてみたい。

まずは日本語から。無難に最後、最終、終局、終結、終末、おしまい。

少し頭でっかちに、格好をつけてみて幕切れ、大尾、とどのつまり。


思いつく限りこんなところだろうか。

あ、そうそう、挙句の果て、も候補に入れておこう。


少し調べてみるだけでも日本語の“終わり”には色んな言い方があるものだ。


では外国語で“終わり”は?

エンドから始まってピリオド……こちらの知識不足のせいで、全然種類が出てこない。

言い方がカッコイイとだけ言ってみようか。

カタカナにするだけで“終わり”がやけに着飾って見えるのは、日本人特有の偏見なのではないだろうか。 


閑話休題、自分は“終わり”に固執している。


Why? それは何故か?


理由は簡単。

自分が終わりを望んでいるからだ。

いつから望み始めたか? ……今も鮮やかに思い出せる。

尊敬して止まない舎兄に背を向けた日からだ。


あの日、舎兄(元舎兄だろうか?)に背を向けた日の夕焼けはいつにも増して赤み帯びていた。

熱さえ感じる夕陽を浴びながら、舎弟の名を返上。

ショックのあまり絶句している舎兄に無情を貫き通し、背を向けて、後にした。


あの日以降、自分の目に映る赤い夕焼けは寂寞としている。


舎兄に背を向けたせいだろうか。

いつだって自分の目にする夕焼けは物寂しい。


何もかもが色褪せているのだ。

少し前まで夕陽に思うことなどなかったのに。

敢えて言うならそう、綺麗……だっただろうか。

夕陽に綺麗だとはしゃいでいた頃があった気がする。


もう、その時の感情を思い出すことも出来ないけれど。

舎兄や仲間と過ごした楽しかった感情も、笑いあった日々も、何もかもを忘却してしまっている。


自分でその記憶そのものに封をしているのだ。



「和彦さん。貴方がどう出るか楽しみにしてますよ――自分、覚悟をしていますから」



舎兄を思い出し、彼を真似するように夕陽空に向かってニッと笑みを浮かべてみせる。

多分自分の表情は夕陽と同じ、物寂しい表情となっているのだろう。

「あと何回、この夕陽を見て侘しい気持ちを抱くんだろうな」

苦笑を零していると、


「蓮(れん)」


仲間に名を呼ばれた。


嗚呼、行かなければ。


踵返し、夕陽に背を向けて蓮は仲間の元に歩き出す。

蓮のこと、清瀬 蓮(きよせ れん)は数週間前まで浅倉和彦の舎弟だった男だ。

今は榊原のチームに身を置いている。