世界を敵にまわしても



「大学3年の、梅雨かな。俺は、ピアノの調律も自分でやるんだけど……言ったよね。誤って、弦で左のてのひらを切った。神経を傷付けて、日常的には問題ないけどピアニストとしては致命的。そう、医者に言われた」

「……!」


先生は少し沈黙した後、左手の黒い手袋を取った。


指先だけが出るタイプのそれは、冷え症だからと言ってたはず。


あたしから見える先生の左手には、斜めに切りつけられたような傷痕がある。


太くはないけど、細くもない。ただてのひらに拡がる傷は妙に赤黒くて、痛々しかった。


先生はその傷に視線を落としながら、再び唇を動かす。


「……零は、支えてくれたんだ。リハビリすればいいって、またきっと弾けるようになるからって……でも、俺は耐えられなかった」


絞り出すような声に、あたしはギュッと唇を結んだ。


聴く……ちゃんと、最後まで聴かなきゃいけない。


そしたら、あたしは言いたい事を言える。


――先生が怪我をしてから零さんの活躍は目覚ましく、でも零さんは先生の前では喜んだりしなかったらしい。


先生にとってそれは有難くもあったけど、悔しさの方が断然大きかった。


「悔しくて、情けなくて……俺は零をひどく妬んだんだ。零はそれに気付いてて、俺も一緒には居れなくて。4年生になった頃、零に別れようって……言わせたんだな、俺が」


……そうだね。


きっと、先生が言わせた。