アリスズc


『バカ!』

 彼女の言った、最後の言葉がそれ。

 大きく伸びあがるように伸ばされた手を、リリューは避けなかった。

 バチコーン。

 乾いたいい音を響かせた後、目に涙をためて、彼女は駆けて行ってしまったのだ。

 何か。

 間違っただろうか。

 リリューは、考え込んだ。

 彼女が、自分の色を嫌う必要などないのだと、事実を持って伝えようとした。

 そして、伝えられたと思ったのだが。

 彼女の答えは、バカとビンタ。

 野猪の子という言葉は、世間一般には、褒め言葉ではないのかもしれない。

 だが、リリューはそれを言葉に出してはいない。

 だから、はたかれた理由が、よく分からない。

 怒っているのは分かったが、本当の意味で怒っているように思えなかったのは──彼女が、遠巻きに見送りに来てくれたこと。

 顔も見たくないほど怒っているのならば、決して太陽の下に彼女は出てこなかっただろう。

 遠かった。

 でも。

 光の下に自分から出て来て、彼女はリリューを見送ってくれたのだ。

『さようなら』

 母や伯母の使う、この言葉だけが、彼の知る唯一の日本語。

 リリューは、都に行かねばならない。

 彼女は、ここに残らねばならない。

 そうあらねばならぬのならば──お別れです。

 リリューの明日は、分からない。

 刀を志した時から、生と共に死と向き合ってきた。

 最善の時に、最大に使うこの命は、決してしがみついておくものではないのだ。

 そんな自分には。

『さようなら』以外に、言葉は持ち合わせていなかった。

 嗚呼。

 なのに。

 そう考えると、微かに心が沈む。

 リリューはまだ──彼女の名前さえ知らなかった。