アリスズc


 夜の宮殿で、歌う事を許されている楽士は、この世の中でもおそらく彼一人。

 白い髪の、トーという楽士。

 その夜。

 東翼の屋根の上に、その男はいた。

 歌っていた。

 満ちてゆく、不吉な月を背に──しかし、不吉ではない歌を歌っていたのだ。

 声が、輝いている。

 月の光の粒のように、音の粒のひとつひとつが美しかった。

 声に誘われたハレは、庭に出てそんな彼を見上げたのだ。

 トーは、自分を見つけてくれた。

 そして。

 降りて来てくれたのだ。

 臣下の礼を取らない男だった。

 でも、優しい瞳をしている。

 その瞳のずっと向こうに、月が黒く輝いていて。

「美しい月だ」

 男は、月を背負ったまま呟いた。

 太陽の住まう宮殿で、この男は実はとんでもないことを口にしたのだ。

 だが、ハレはこくりと頷いていた。

 涙が、出ていた。

 本当に、美しい月だと思ったのだ。

 テルが太陽にふさわしく、自分はふさわしくない月のような人間だと。

 ハレは、一生懸命自分を貶めようとしていた。

 けれども、歌の向こうの月は美しくて。

 自分もまた、決して劣る人間ではないのだと、トーのたった一言で救われたのだ。

 それから。

 ハレは、図書室の秘密の扉を、開けた。

 昔、一度だけ父が教えてくれた部屋だった。

 そこに、月の本が朽ちかけながらもたくさん眠っていたのだ。

 写本しながら、ハレはそれを読んだ。

 その本の中の月は、敵でも不吉なものでもなかった。

 太陽と別の意味を持つ、もうひとつの空の星。

 ハレは──月や星に取りつかれたのだ。

 だから。

 太陽になる必要が、なかった。