アリスズc


「桃…いらっしゃい」

 母に呼ばれて、彼女はどきっとした。

 また、何か説教をされるような不躾な真似を自分がしたのだろうかと、慌てて我が身を振り返ったのだ。

 しかし、幸いなことに心当たりはなかった。

 家に入ると、母とエンチェルクの他に、もう一人いることが分かる。

 誰だろう。

 よく見ると、小さい子供だった。

 長い髪を編んで、首に巻きつけているその姿は、テルを彷彿とさせる。

「こんにちは、モモ」

 だが、テルよりも遥かに落ち着いた声に呼びかけられ、彼女ははっとした。

 ぴしっと一度、背筋を伸ばし、それから深々と腰を折る。

 ここは、道場でもないし、相手はテルでもない。

 更に、母とエンチェルクが自分を見ているのだ。

 他のどんな環境より、怖いことこの上なしだった。

「ああ、堅苦しいことはいいよ。今日はお願いがあって来たんだ」

 子供の頃に、桃は彼──ハレと会っているらしい。

 だが、余りに小さい時の思い出過ぎて、よく覚えていない。

 テルの双子の兄だ。

「お願いと言うのはね…」

 母は、次の言葉を黙って聞いていた。

 エンチェルクは、少し心配そうな眼差しで聞いていた。

 桃は。

 桃は、心臓が飛び跳ねんばかりに驚いた。

 ハレが、桃を側仕えとして旅に連れて行きたい、というのだ。

 これこそ。

 これこそ、彼女の望んでいた、旅立ちの大義名分。

 だが。

 桃は、それをテルに頼んでいたのだ。

 彼自身の旅に同行させて欲しい、と。

「テルからの推挙でね…」

 その言葉に、ほっとすると同時に疑問も覚えた。

 何でわざわざ、兄弟に推薦したのだろうか、と。

「料理、裁縫、礼法…そして、剣術。それらの力を、私に貸して欲しい」

 母は、黙っている。

 微動だにしない。

 娘の答えを、ただ待っているようにも思えた。

「私でよければ喜んで」

 桃は、その申し出に飛び付いた。

 どうして、断れようか。