ある駅のベンチに、長い足を組んで不機嫌そうに顔を顰めている男がいました。


その男の名は北川 慧。


慧は薄い青フレームの眼鏡を人差し指で持ち上げ、組んでいる足の上に手を乗せる。

慧は黒い髪を鬱陶しそうに耳に掛け、小さく呟いた。


「遅い…」

低く、甘いその声に彼を傍で見ようと近付いた人達は膝からガクンと崩れ落ちた。

慧はハッとしたように口を抑える。
この様子をみると、慧は自覚ありのようだった。


慧の声を聞いていなかった人達が慌てる中、慧はチッと誰にも聞こえないように小さく舌打ちをし、見られないように俯いた。

その時、彼の後ろを人が通った。


『あっ、由香ちゃん…っ!』


甘ったるいわけではないが、爽やかに甘く、可愛らしい鈴のような声が慧の耳に届く。
慧は初めて、体が崩れ落ちるような感覚に陥った。


「っ…」


慧が振り向いた時には、後ろを通ったであろう女の子は花柄のワンピースを揺らしながら人混みに紛れていった。


慧は耳に残るあの声を思い出して顰めていた顔が自然と揺るまるのを感じながらまた俯いた。