恋、想い、春の雪

「ただいま!あ、いい匂い!」

部活で遅くなったさやが帰って来た時、僕は夕飯を作っていた。

さやの両親は結婚記念日だからと仲良くデートに出かけてしまい、その間僕はさやと二人きり。

『博章君がさやの面倒見てくれるから助かるわ♪』

手放しに信頼してくれるのは、有り難いようで有り難くない。

「わあ、ひろって天才!何で豚汁食べたいって分かったの?」

さやは葱を刻んでいる僕の左腕に嬉しそうにしがみつく。

……これだから。さやは二人きりでも態度が変わらない。屈託なく触れてくる。はっきり言って心臓に悪い。

「離れてください佑海紗耶香さん」

肩の辺りにあるさやの顔。不満気に尖った口がアヒルみたいだ。

「あのね、今刃物使ってるんだよ?くっつくと危ないだろ」

「あ、そっか」

じゃあシャワー浴びてくる、とさやは扉の向こうに消えた。

僕は安堵のため息を一つ。

頬が熱いのは鍋の湯気のせいだ、と自分に言い聞かせた。


夕飯を終え、テレビを見ているうちにさやはソファーで眠ってしまった。大会が近いから練習もハードなんだろう。

そっと近づいて膝をつき、声をかけた。返事はむにゃむにゃ。仕方ないからタオルケットを掛けてあげる。

乾きかけた焦げ茶色の髪が日焼けした頬、そして唇にかかっている。とくり、胸が鳴く。

『眠り姫は王子様のキスで目を覚ますのです』

残念ながら僕は王子様にはなれそうにない。唇はおろか髪にすら指をのばせない。

さやの笑顔が曇ってしまう事が怖くて。

お伽話の王子様は余程勇気があるんだ、なんて軽く言い訳。

さやはぐっすり眠っている。信頼されていると同時に全く意識されてない証拠。

僕は苦笑し、洗い物を始めた。左腕にまださやの温もりが残っていてちょっと苦しい。

誰かが言ってた。恋をすると一人分だった心の中に相手の居場所が出来ると。

一人増えた分、時にバランスを崩し不安になったり迷ったり悩んだりするのだと。

真偽の程は定かじゃないけれど、僕に関してはこの言葉が当たってるみたいだ。

触れたいけれど壊れるのが怖い。
こんなにそばに居るのに、遠い。


近くて遠い眠り姫は、幸せそうに微笑みながら夢の国を旅している様だった。