やがてしばらくして、四つ程前方の右側の本棚の陰から、きょとんとした表情の素音さんがひょっこりと顔を出した。
「あら、章介さん?」
「…あ、やぁ…どうも……」
「やだ私ったらぼうっとしてごめんなさい。全然気付かなくって…」
「いえそんな、元より僕も呟いてるだけのようなもので。
こんな奥にいたら聞こえませんよ」
そんな声を毎度聞きつけて迎えくれる普段の方が不思議と言ったら不思議なのだ。
いつも通りの彼女の様子に、僕はさっきの事は聞かなかったことにしようとひそかに内心で呟いた。
「今日はどこかにお出かけに行かれたんですの?」
「えぇ、二丁目の喫茶店に友人に会いに」
「あら、ひぐらし堂に?地元の人くらいしかあそこは知られていないようなところですけれど、もうここでほかにお友達ができたんですか?」
目を丸くして僕を見上げるその眼を直視できないまま僕は少し笑う。
「何、ほんの五歳くらいまで今住んでいるところに両親と住んでいましてね。
母のお気に入りの店だったんで覚えていたようです。
友人にも迷いかけたと最初文句を言われました」
「昔この辺りに…?」
少し口元に手をやりながら、さらに驚くように彼女は声を若干潜めた。
「えぇ、本当に小さい頃でしたから細かいことは全然思い出せませんがね」
「……」
「それより、今日もお蔵から本の運び出しですか?」
「あぁ…今日は本の状態の点検ですわ。
古い書物が多いから中が破けていたり虫食いにあっていたりして、今さっきも丁度一冊虫に喰われたのを見つけましたのよ」
そう言って彼女は思い出したように奥へと歩き出す。
僕は黙って彼女の後ろを追った。



