─ここに来る途中に、大きな山がありましたでしょう。

犬山って言われてましてね、昔は悪さをする野犬が出たものだけど、

あの和尚様が来てからめっきり減りましたねぇ。

大層徳のお力が強いのでしょう。素晴らしい方ですよ。

あ、そうそう。

旦那様、狢(ムジナ)って妖、知っていますか?

女は、さも愉しげに続ける。

野犬が消えたことがそんなに嬉しいものか。何が妖だ。

女が愉しげになればなる程、咲重郎の腹の中には何とも塩梅(あんばい)の悪い物が満ちて行った。

─和尚様がここへ来たばかりの頃、このあたりに男を誑かして悪さをする女が居ったそうです。

そんなことをするのは、ここいらへんでは狸と相場が決まっていましてね。

見兼ねた和尚様が、ある刻女を誘い出して、成敗為さってみると、それは狸でなくて、

二尾の狢だったそうですよ。

何でも、狢と言うのは狸に似てはいるが形は違っていて

二尾一緒にならないと、女に化けられないそうで。

幸せなことに、今は何も出はしませんがねぇ。

あぁ、ほら、旦那様。

あの石段を登った上のが、和尚様がいらっしゃる夢幻寺ですよう。

女が指差す方を見やれば、確かに道の少し先に、山に吸い込まれて行く様な石段があった。

咲重郎は、そこで女の笠から出ると、礼を行って石段まで走り、駆け上がった。

女の怪談話に、これ以上付き合う気力がなかったからだ。

しかし、女が後からやって来る気配はない。

寺に用は無くとも、こちらに来たからには、この石段の前は通るはずなのに。

石段を半分程行って、咲重郎は、雨が止んでいることに気が付いた。

風が、ひんやりと肌を撫でて行った。