晩夏の生暖かく大粒の雨が渇いた土を幾分か跳ね上げて地に斑文を描く。
稲がザラザラと鳴き愛しき妻を呼ぶ。

遠雷の音を聞きながら気ばかりが焦った。
畦を駆ければ乾いて細かくなった土が水を吸い粘って足を取る。
探し人の名を呼んだ。彼の妻になった娘の名。
町の商家から縁談があり田舎の地主の家に嫁いできたのは、結婚に焦るにはまだ幾分か若い娘だった。牛に乗り黒無垢に身を包んだ色白の娘は、彼の目には何か別の世界の生き物のように映った。

ザラザラとザワザワと稲が呼ぶ。
重く低く空気を揺する雷鳴が追うように迫る。

名を呼びまだ青い田畑を見回す。
町から来て稲を見た事すらなかった娘は、それでも馴染もうと田に出ていたはずだ。
畦の半ばに何かが落ちていた。拾い上げれば泥水に染められた農作業用の手袋が一つ。誰しも使う何の変哲も無い手袋だったが彼には彼女の物に思えた。

ザワザワと稲が呼ぶ。

稲の中に隠れていたら見付けられないだろう。最悪な事態ばかりが頭をよぎる。
大きな声で名を呼びながら畦道を駆ける。自分の方が危険な事などすでに忘れていた。
草むらに小さな塊が一つ。普段なら目にも留めないそれを拾えば先程と同じ手袋。揃いとの確証はない。しかし彼女の物ならばこの先なのか。
名を呼ぶ。腹の底から。
雨にも雷鳴にも勝るように。

ザラザラと稲が愛しき妻を呼ぶ。
一際大きな轟音に空気が揺れ、一瞬だけ辺りを光が埋め尽くした。
その名に恥じない勢いで、大気中のあらゆるものを燃やし尽くしながら稲妻が空を覆う。

小さな悲鳴が聞こえた気がした。
竦んでいた脚を再び走らせ緩やかな下り坂を行くと、簡素な屋根が付いた地蔵尊の脇に動く影が見えた。
吐く息が震える。
駆け寄り声をかけると、その人は青冷めた顔を上げた。
「大丈夫ですか」
娘は驚いた顔をした。頬に赤味が差す。よほど雷が怖かったのだろう。
「すいません。私っ」
「いえ。ご無事なら良かった。ここでやり過ごしましょう」

再び空が光り、轟音が腹をゆする。

横から小さく悲鳴が上がり彼女の手が彼の手を掴んだ。
「怖いですか?」
「いえ…あなたが来てくれましたから」
稲妻が稲を良く実らすように、彼女も彼を支えるだろう。
彼は彼女の手を握り返した。良き夫になる事を誓いながら。