<心>
思い出すのは、…一番幸せだった頃。紫苑がいて、流衣がいて、ナツがいて、音弥がいて……、そして。
『心、桜が綺麗だ』
“彼”があたしの隣にいてくれた、あの頃。
毎日毎日が宝石のように輝いていて、気を抜いてしまえば涙が出てきそうなぐらい幸せだった。
今が決して不幸せなわけじゃない。断じて、それはない。
「…ここ…ろ…さま…」
「泣かないで、千世。今日は渡瀬家にとって、おめでたい日なのよ」
今日、あたしは、“あたし”を捨てる。あの頃のあたしと決別するの。悲しくないわけない、辛くないわけない。
ただ、進めない。このままだと、あたしはぜんまいを失った仕掛け物なの。
それは、絶対に許されないことだもの。
あたしは、渡瀬家次期当主、渡瀬心よ。あたしの肩に何れ程の人間の人生が懸かっているか。
「千世、…“桜が綺麗だ”わ」
「お嬢様…っ」
桜は散る。
彼への想いと共に。
散った花弁を集めはしない。してはいけない。
「…3分、ちょうだい」
散りゆく花弁に、この想いと涙を染み込ませて、一緒にさよならするから。

