はぁっはぁっはぁっ。

乱暴にタクシーから降りて、アパートメントへと駆け込んだ。
走って走って走って、雨を気にする余裕もない。
寒空の下、コートをハジ邸へと忘れざるをえなかったため、黒のスリットドレスで雨に打たれていた。
流石に寒さを覚え、アパートメントの階段をかじかみながら上がる。

はぁっはぁっはぁ。

泥の跳ねたヒールが忌々しげに階段や踊場、廊下を汚した。
乱れた髪から滴る雫が、無情にも生々しく開いた肩の傷を叩いている。
静かな夜に音が響くのも構わず、タクシーのドアと同様、乱暴に部屋の扉をこじ開けた。

グラム、グラム、グラム、グラム、グラム、グラム!

寝室に走る。キッチンのテーブルにピザの食べかけがあったのを横目で確認して。

――バンッ。



「……安眠妨害すんじゃねーよ」

寝室に足を踏み入れた瞬間、飛んできた悪態は私の耳には届かない。
名前を呼ぶことも出来ずに、ただソファに腰掛ける傷だらけの男を漠然と見ていた。

「……なんだ、その格好」

金色の眉が寄る。眉を横断している切り傷が痛そう。
沈黙が訪れ、互いに声を出せない雰囲気になってしまった。
その間、私は平静を取り戻し、グラムの姿に眉を顰める。

「あんた、包帯は?」

ソファに腰掛けるグラムの体には包帯もガーゼもなく、見るも無惨な傷が生々しく外気に曝されていた。
よく見れば髪も濡れているのか、外からの明かりにつやつやと鋭く光っていた。

「風呂借りた。包帯巻いてくれ」

その聞き慣れた生意気な物言いに、泣きたくなる。

(グラム、グラムだ……)

強張っていた表情が自然と緩む。
荒かった息が落ち着いていく。とくとくと激しかった鼓動も、次第に落ち着いてきた。

「……バカだね」

込み上げた嬉しさを噛み締めながら。
ゆっくりとグラムに近づき、まだ乾いていない金髪を乱暴に引っ張った。

「っテメ、優しくしろ」

いつもなら憎たらしく感じるそれが、今は私を安心させる。
濡れた髪を掌に収めれば、ポタリ、金の束先から透明な雫が滴った。

「乾かしなよ。怪我が治っても、風邪引いたらマヌケだよ」
「その言葉、一部テメーに返す」

そう言ってグラムはぐっしょりと濡れた私のドレスを鷲掴んだ。
飽和状態のシルクは私の身体に張り付いて、傷だらけの拳を伝い水が溢れている。
そうして床に水が溜まるのを、俯きながら眺めていた。

薄闇のグレーの部屋。雨音。
目の前で気持ち良さそうに撫でられている男が人殺しとは、到底信じられそうもなかった。
混乱が再び舞い戻る。
その渦は次第に大きくなり私の躰を、心を、飲み込もうとする。

――だからだろうか。
俯いていたせいで、疼く肩がグラムに曝されていた事に気付かなかった。

グラムがそこに、目を走らせた事にさえ。

「……シャワー、浴びてくる」

やっと出た言葉にすら息を詰まらせそうになりながら、私はグラムから離れようと爪先の方向を変えた。
混沌とは別にある、妙な感情すら、巨大な渦を巻く。
もう、考える気力もない。

「……誰と会ってた」

ふと、低く唸る様な声が私の背中を打った。
――ねぇ、獣みたい、その声。

「あんたには関係ない」

少なくとも〝グラム〟、あんたには。

金色が立ち上がる。
負傷しているとは思えない程、素早く、身軽に。

「リナ」

――静かに、それでも性急に歩み寄ってくるグラムを眺めたまま、私は動けずにいた。
腕を捕まれる。骨が軋むほど、強く。

「ハジと会ってたのか?」

やめてよ、離して。

吐き出す台詞の代わりに、金色の獣を睨みつけた。
鋭かった灰緑の瞳が酷く痛々しげに歪む。

「はっ……、俺を売ったのかよ。抱かれてきたのか?ハジに」

私を嘲る声。
手負いの獣は、私を喰い殺そうとする。

「……ちが、う」
「なにが違うんだよ。正直に吐け、この淫ら」

気付けばその熟れた頬を殴りつけていた。
勢いで横を向いたグラムの口元から、どろりと出血する。
それを見て、一瞬で沸いた頭がりやりと冷める。
呆然と見つめる赤が滲む唇から、ふと嘲笑が漏れた。
捕まれた腕が千切れそうだと、きしりと鳴く。

「……そんなに男に飢えてんなら、俺が相手してやるよ」

冷たい眼。
あんた、そんな顔も出来たんだね。

でもだめだよ、グラム。あんたの眼は、私を煽るだけだ。
自分の変態っぷりに嘲笑が湧いて出る。
あのクソ馬鹿ハジを、馬鹿にできない。

「そんな体で女を満足させられると思ってるわけ?」

冷えた唇は、同じく低温の言葉しか吐けない。
本当は、今すぐ熱い涙を流してしまいたいのに。

あぁ、馬鹿なこと、してる。


「その体に欲情してた女一人満足させるくらい、訳ねぇだろうが」

棘を含む言葉。
乾いた笑いが、肺から浮上する。

「男の本性も見抜けねぇ女なんざ、俺が相手にする必要もねぇくらいだ。……有り難く思えよ」

死んじゃいなよ、グラム。

傷の痛みも何も考えず、私はその傷に埋め尽くされた痩身を押し倒していた。
合わせた唇、その傷の凹凸から、血液を絞り出すように吸い付く。
閉じた瞼の奥が酷く、熱い。

(泣いてるの、リナ)

肩に置かれたグラムの指。
ハジに痛めつけられた噛み痕に、不揃いの尖った爪が喰い込む。
痛みに反応して、唇から離れた私の首に傷だらけの指が素早く絡み付いた。
傷に爪を立てられたまま引き寄せられて、キス、キス、キス。

一瞬の冷たさを感じて、すぐに溶けてゆく。
右肩の痛みに、体を支えていた右腕から力が抜けた。
その瞬間、右肩が獣の目前に落ちた。

「つ、ぁ…っ」

熱い息がぶつかったかと思えば、ハジのキスマークが残る肩の傷をぐちゃぐちゃに噛み潰すように歯を立てられた。
歯という器官は、肉を裂くのになんと適しているのか。
痛みに目が眩む中、喰われる恐怖に息を止めたくなる。
痛みに震える私を、今度は癒すように、グラムは舐めた。

――ずるり。血をすすられる感触に鳥肌が立つ。
心臓に、ぷすりぷすりと、一本ずつ針を突き刺すような痛みと衝撃に、目蓋を閉じて、気絶しまいと堪えた。
私が跨る男は、手負いの獣だ。
それでも牙を隠そうとしない、猛獣。

『――淫乱』


(……そんな良いものでもないか)

真下で噛みつくのは、私の大切な大切な、狡猾で気高い、不遜のバカ猫。
白い剥き出しの肌を裂く無数の赤線。皮膚の歪み。

底冷えする、緑。見下ろしたグラムの唇。
私の血か本人の血か解らない赤が混ざり合い、無様に、けれど淫靡にこびり付いている。

それすら、私の胸を掻き立てるんだから、もうどうしようもない。

グラムに跨ったまま、濡れて張り付く邪魔なドレスを剥ぎ棄てる。
曝された肌を襲う冷気に、けれど高熱に熟れる傷口のせいか寒さはさして感じなかった。
眼下の生意気な瞳を見つめ返しながら、熱く溶け始めた体とは裏腹に、妙に冷めていく頭の中。

グラムの胸、一際深く抉られた傷に私は手を添えた。
グラムの眉が、ヒクリ、ひきつる。


「……あんたを、殺してやりたい」

虚ろに動いた唇と共に、その傷ひとつに体重を傾けた。

「ぐ、ぁっ」

悲鳴が上がる。
全身震わせるような欲が体中を巡って、早く吐き出したいと出口を探してる。

「あは、その声、最高……」

無意識に舌舐めずりをしていた。
舌先で触れた唇が、どちらのものか解らない唾液で濡れていたことに気付き、また、熱が上がる。

「てめっ、……つぅ」

傷を圧す手に更に体重を掛ければ、冷えた掌に熱が籠もる傷の脈動。

――生きてる。



「……グラム、鳴いてよ」

口を閉じないで。
鳴いてみせて。
私の前で。

私に、鳴かされて。


グラムの顔を覗き込む。
薄暗い、灰と黒に映える濡れた緑は揺らがない。

生意気、な、瞳。

薄闇の、無機質な空間に激しく地面を叩く音が響く。
あぁ、今日もだ。
激しい雨の音が耳に煩わしく纏わりつくのに、何故か静寂を感じさせる。
酷く、静かだ。

(ねぇ、グラム)

――鳴いてよ。


「っぅ……」

傷に毒を塗り込む様に、皮膚と皮膚を押し付けた。
薄い瘡蓋が剥げたのか、傷に宛てた掌に生暖かい液体の感触が広がる。

「……て、め、殺すぞ」

呻きながらなに言うのさ、バカ。

「いいよ」

早く、殺しなよ。私が本格的に馬鹿なことをしでかす前に。

ねぇ、グラム。
私、どうなっちゃうんだろう。

(ねぇ、グラム……)



「抱いてよ、グラム」

――馬鹿。馬鹿な、リナ。

こんな怪我人に抱かれてどうするのさ。
益々変態の極みだよ。きっと虚しさしか、残らないのに。

「……行っちゃう前に、抱いてよ」

私の前から消えてしまうことなんて、拾った時から解ってた。
それなのに馬鹿みたいに馴れ合うから、罰が当たったんだ。

「ハ……」

吐き出される荒い息。
痛みをやり過ごしたのか、私を嘲ったのか。
灰緑が金に滲んでいる。

あんたは綺麗だね、グラム。

(――だからだ…)

手放したくないと思うのは。
手懐けた凶暴で美しい獣を手放したくないだけ。

ただ、それだけだ。

「あんたなんか、死んでいれば良かったのに」

部屋の前で男が倒れていた。
私の部屋じゃなければ良かった。
男が死んでいれば良かった。

その金の髪も灰緑も、完全に生気を失って倒れていればよかった。

――そうすれば。


「……生かしたのは、お前だろ」

掠れた声。突きつけられる現実。
悔いても悔いても、きっと、報われない。

グラムの傷だらけの手が、濡れた下着に掛けられた。

「……そうだね」

拾わなきゃ良かった、あんたなんか。