「……ハッ、」
痛々しい呼吸と共に吐き出された嘲笑に、私の肌は再び粟立った。
こんな死にかけの声に感じるなんて、どうかしてる。
馬鹿馬鹿しい。
「ねぇ、邪魔なんだけど」
一先ず、私が一番望むことを口にした。
「隣のドアまで移動できない?」
無理だとは思うけど。
「……ハ、ぁつ、かまし、女だ、な」
「今の状況から行くと、あんたの方がよっぽど厚かましいわよ」
死にかけている割には、減らず口を叩く男が元気そうに見えてきた。
大した精神力だ。これだけの傷を負っていながら、これだけの余裕があるなんてただ者とは思えなかった。
「……ねぇ、」
しかし三度目の呼び掛けに、男が口を開くことはなかった。
「ちょっと」
勘弁してよ。
男は苦痛に魘されながら息を吐くが、意識は戻りそうもない。
「最、悪」
警察を呼ぶか呼ばまいか訊くなんて、なんて馬鹿な事をしただろう。
死体紛いの意見なんか訊かずに、さったと警察に突き出せば良かったのに。
あぁ、どうして、こんな面倒を自ら背負いこむような真似をしたのか。
雨のせいに違いない。
だから、雨は嫌いなのだ。
バッグから携帯ではなく部屋のキーを取り出した。
男を跨って部屋のドアを目一杯開ける。跨った足の底に、血溜まりが滲んだ。
気持ち悪い。
「よっこら、せ」
男を飛び越え、私は部屋の中に飛び込んだ。
――早くしなければ。
誰かに見られたりしたら今よりずっと面倒な事になる。見られたら、死体遺棄に殺人未遂。もし死んでたら殺人罪。
ありえない。
バッグを部屋の奥に放って、血みどろの男の脇に腕を通し肩を抱え込んだ。
全腕力を以てしても、女の私が男を室内に引きずり込むのは一苦労だ。
なんとか寝室まで運び込み、急いで浴室からタオルというタオルを抱えて廊下に戻る。
血で滑りそうになるスニーカーに舌打ちした。
鮮やかでありながら、鈍く生きた、赤。
人の色だ。
「クソッタレ」
見れば廊下から寝室にかけて血と泥の川が出来ている。
買い換えたばかりのカーペットが台無しだ。
二度目の舌打ちをして、廊下に出来た血溜まりをタオルで拭き取りに掛かる。
白いタオルはすぐさま赤く染まり、何枚ものタオルがあっという間に血で飽和状態になってしまった。
廊下が絨毯じゃなくて良かった。もし絨毯なんて敷いてあったら、取り返しがつかなかった。
古びたタイルに意味もなく感謝する。
――淡白と言われる私が、ここまで真剣に何かに集中したのは初めてかもしれない。
それほどの猛スピードで廊下の血溜まりを片付けた。
見ず知らずの男の為にどうしてこんな事をしているのか。
最後に濡れたタオルで仕上げ、急いでドアを閉める。
濡れきった生臭いタオルをバスタブにまとめてぶちこみ、蛇口を捻る。
タオルに吸われた血液が溜まり始めた水に溶けだしていく。栓をして水を溜め、効果があるか知らないが、漂白剤をぶちこんだ。
赤く染まったタオルがすべて水に浸かったのを確認して、浴室を後にした。
寝室に戻ると、男は運んだ時と微塵も変わらない体勢のまま、新しい血溜まりを作って横たわっている。
(……とにかく怪我人は、清潔にするべきだ)
応急処置すらまともに出来ない私にはそれが精一杯。
まぁ、とりあえず衛生的にしておけば、悪い様にはならないだろう。
ヒーターで部屋を暖めてから、役に立っていない血みどろの服を鋏で破り捨てた。上も下も全部。
下着にすら血が滲んでいる。まるで炭で覆われた様に血と泥で黒くなった躰。
綺麗な濡れタオルで固まった血と泥を拭うが、どす黒い血の塊は泥と同化してしまっている。傷口から滲み出た黄色い汁まで固まっていて、痛々しい限りだ。
切り傷に擦り傷、抉られた様な痕まである。
まるで拷問されたような。
一体どういう経緯でこんな傷を負ったのか。
深く考えるのはやめた。ろくなことにならない。
ある程度拭き取ると、傷に紛れて白い肌が見え隠れし始めた。
痩身の身体は思った以上に惨たらしく、私は再び眉を寄せる。
同じく汚れた顔を拭うとやはり小さい傷が無数に付いていた。
白く柔らかそうな肌に、赤い傷痕が残酷な色を以て私に見せつける。
「……あれ」
根気強く汚れを拭っていくと、顔の容貌がある程度見て取れるようになった。
年を喰った男だと思っていたが、その顔は幼ささえ残している。
二十歳を過ぎているようにも、まだ十代のようにも見えた。
――でも、子供って程でもない。
首まで伸びた、今となっては凝固した血液で束となった金髪が顔から滑り落ちる。
ゾクリ。
綺麗な、男だった。
金色の艶やかな生物は、私の瞼に焼き付くように残る。
俄然やる気が湧いてきた自分を笑った。
この男が動く様を見てみたい。
――だからと言って。
「あんなの、拾うもんじゃないな……」
男の体に消毒液をぶちまけて、ミイラ男にしてからシャワーを浴びた。
バスタブに浮かぶ血濡れのタオルと体を一緒くたに洗い流す。気に入っていたコートも絨毯も全部、あの男に台無しにされてしまった。
「ジーザス……」
祈りではなく八つ当たりだ。
あの綺麗な生物の死体姿を思い出して、私は思わず呟いた。
厄介極まりない。
舌打ちが漏れた。職場で注意されてから気を付けていたのに、再発してしまった。
煙草。
煙草が吸いたい。
浴室を後に、鍋に残っていたスープを火に掛けた。
古いコンロは、カチカチと三回鳴らしてやっと火が点く。冷蔵庫に残っていた野菜とベーコンを煮込みに煮込んだ、ただの野菜スープ。
それを器に盛って、キッチンの床に座り込み、留守電を聞く。
ピピッ。
『――リナ』
「ハイ、ママ」
『元気にしてる?連絡が取れなくて寂しいわ』
煙草を咥えて床に座り込み、隣の部屋のミイラ男を眺めた。
傷の重さに、もうこれ以上動かすわけにもいかず、床に寝かせたまま何枚もの毛布でくるんである。
熱の籠もった途切れ途切れの呼吸を、耳が拾った。
生きてる。
『リナ、こっちに帰ってくることは出来ないの?そんな危ない国より、日本の方が安全でしょう?』
「ノー、ママ…」
日本もアメリカも同じようなものよ、ママ。
人口に差があるだけだけで、凶暴さも凶悪さも異常さも何も変わらない。
銃社会だから、犯罪に遭遇する確率はそれこそ高いけれど。
『良い歳なんだから、こっちで結婚して幸せになるほうが良いわ』
「…ママ、そのジョーク、最高に笑える」
薄笑いを浮かべて煙草を咥えなおす。ノイズが耳に障る。
『何か変わった事はない?』
そりゃもう、映画並みにあったよ。
『暇があったら、連絡を頂戴』
「…OK、mam」
雨の日は嫌なことばかり。
雨と相性が悪いのだと、本気で考えた事もあった。
(――本当に、嫌な事ばかりだ)
煙草を灰皿に置いてスープを啜る。
味気ないが、身に染みる暖かなスープは有り難かった。
あいつ、飲めるかな。
(……まぁ、無理か)
荒く息を吐く男は、目を覚ます気配すらない。
私はライトを消して、食べかけのスープの器を床に置いた。
緩く線を上げる湯気が微かに湿気を帯びた空気を更に助長させる。
気が滅入る。
暗闇の中に浮かぶ包帯の白さと、荒くも浅い、男の呼吸音。
暗闇に慣れた目には、傷付いた美しい生き物が映る。
傷付いた肢体は艶やかでもあり、無防備な顔は私を挑発するように生意気だ。
そそられた。体温が、ジワリと下肢の熱と共に上がる。
変な性癖はなかった筈だ。
傷付いた男を前に、私はその痛みに歪む顔を確かに視姦していた。
――ふと気付けば、そんな自分を嫌悪して、また気付けば魅入っているのだから、笑える。
そしてそのまま、気付かぬ内に眠りに墜ちた。