グラムにボトルを投げつけたとは言ってもそれでもやもやした胸の内が晴れるわけもない。
そもそも朝食を食べ損ねた。最近はきちんと食事をとっていたので、一色抜くだけで力が出ない。
苛々しながら早足で歩いていると、地下鉄の入り口付近でクラクションを鳴らされた。
ちらりと見れば、完璧に磨かれた傷一つないコルベット。
下手に相手にするとロクな事がないので、そのまま無視して地下に潜ろうと歩調を更に速めた。

「Miss,リナ」

名指し。
遅刻寸前のところを呼び止められて、苛立ちは更に増す。
そのまま眉を釣り上げて振り返り、心底から後悔した。

「おはようございます。Miss,リナ」
「……ハジ警部」
「どうぞハジと呼んでください」

歩道に横付けされたコルベットから顔を出していたのは、例の色男。

「お仕事ですか?」

にこやかな笑みを浮かべて会話を求める男を他所に、私は警察に事情聴取されたという正当な遅刻理由を思いつき、内心ほくそ笑んだ。

「もしよろしければ、送らせて頂けないでしょうか?」

昨日の気味悪いセクハラを思い出して気が引けたが、うまく断る理由が思いつかない。
それに車に乗せてもらえればなんとか遅刻も免れるかもしれない。
ぐるぐると考えに考えて、気付けば助手席に腰を落ち着けていた。グラムにばれたら説教だけじゃ済まないかもしれない。
助手席の座り心地は最高だった。タクシーとは違う、高級ソファのような心地よさ。

「Miss,リナ、昨日はよく眠れましたか?」

気遣わしげな言葉に、溜め息を吐く。

「……まぁ、なんとか」

グラムの独断による通報だったためか、その話を出されてもパッとしない。
キャジーの死体を目にしたわけでもなく、ニュースを見ても実感すら湧かずにいたのだ。
そんなことで心配されても、正直、全く身に滲みなかった。

「……背中、どうかしたんですか?」

黙り込んだのは事件のせいだと勘違いしたらしい。
ハジは気安い笑顔を浮かべ、話を変えた。

「背中?」

なにを言いたいのか解らず首を傾げれば。

「背中を庇うように座ってらっしゃるので」
「……あぁ」

引っ掻かれた傷はまだ痛む。無意識に庇っていたらしい。

「猫に、引っ掻かれて」

穏やかな微笑を零し、ハジはもっと飛ばせと怒鳴りたくなる程の安全運転で私の会社へと向かっていた。

「凶暴なの」

我が家の〝猫〟を思い出し、呆れたように愚痴を漏らす。
そんな私の様子に、ハジは声を上げて笑った。

「私も二匹のシャムを飼ってるんですが、それはもう気位が高くて……」

シャム二匹。売ったらさぞ金になるだろうな。


「名前はなんて言うんです?」
「私の?」
「いえ、猫の」



「あぁ、グラム、……」

――あ、まずい。
話に流され、つい答えてしまった。
グラムの前でハジの話を避けた様に、ハジの前でもグラムの話は避けるべきだったのに。
〝グラム〟が本名だとは思っていないが、存在自体、臭わせないままにしておきたかった。
なにせ奴は、どう考えても警察に追われる側の人間だ。

それに、昨夜のクローゼットの中での様子は、尋常じゃなかった。
あれはもしかしたら、このハジという男が関係しているのかもしれないと、昨夜ソファでひたすら考えを巡らせていたのだ。

――それを、まんまと。
自分の失態に、舌打ちしたいのをなんとか堪える。

「……グラム、ですか?」

穏やかな声色であるにも関わらず、私は心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。
その呟きが、意味深に聞こえる。
固唾を飲んで、ハジの次の言葉を待った。

「個性的な名前だ」

その言葉に、やっとこさハジの顔を見た。
はじめと変わらない、端正で穏やかな横顔に安心する。

(私の考えすぎか、それともかわされたのか)

とにかくもうヘマはするかと、平静を装って日常会話を続けた。

「……あぁ、リナ」

オフィスに着くまでの時間。
たわいない世間話をしているうちに、ハジは気安くお喋りをするようになった。
それらは斜に構えていなくて親しみやすく、ユーモアで最高の「お喋り」ではあったけれど――オフィスに着いた頃には、私は完全に消耗しきっていた。
ご丁寧にオフィスの正面に駐車された車から、逃げるように降りる。

「明日、夕食でもどうです?」

計算し尽くされたような微笑が向けられる。
――罠か、好意か。

(……解らない)

車窓から顔を出す美麗の男は、にこやかな笑みを浮かべこちらの返事を待っている。
下手に断ってもどうなるか。

「喜んで」

私は顔の筋肉を最大限まで緩ませて、ハジに笑顔を向けた。




「――お前、あのハジ警部と知り合いらしいな」

ボスが出社早々、話を振ってきたと思ったらそんな話題だった。
誰がちくったんだか。うんざりする。

「ボス、プライベートに口出しは無用です」

周囲に噂が広がらないうちにデスクを立ち、終えた仕事をボスに引き渡す。
やはりオフィスの目の前まで送らせたのは間違いだったらしい。
数人の目撃者のおかげで、えらい迷惑を被っている。

「あのハジ警部とお知り合いとはな。一体、どんな手を使ったんだ?」
「……手も足も、ついでに言えば股も開いてません」

グラムに関係していなければ、あんな顔だけの気味悪い男、願い下げだ。
舐めるように肌を伝う低い体温は、蛇のようで生暖かい。

「熱烈に抱き合っていたらしいが」
「噂にオビレ」

オヒレだったかな。
私の冷めた視線に、ボスは肉付きのいい肩を竦めて見せた。

「どういう関係かは知らんが、あのハジって男には気を付けろよ」
「はぁ?」

訳が解らない。
一体どんな立場でそんなことを言っているのか。
怪訝な顔丸出しの私に、プライベートオフィス内であるにも関わらずボスは慣れない様子で声を潜めた。

「表向きは優秀な人格者だがな、あいつには裏の顔がある」

至極真面目な顔で、冗談でも言っているのだろうか。

「うら」

正気ですかと確認する意味も込めて、ボスの言葉を繰り返した。

「俺も詳しくは知らんが、元軍人で特殊任務に就いていた男だ」
「軍人……」

元軍人がなぜ警官なんかに転職するのか私には皆目見当もつかない。
いやまあ、しがない中小企業の支社をしきっている元軍人なら目の前にいるけど。

「イギリスで特殊任務を遂行中、奴の仲間が奴以外残して全滅したらしい。奴はそのショックで当時の記憶を失くしたがな。……ま、その頃から奴の噂はあまり良くない」

淀みなく進む話。
上司部下として長年付き合ってきた男だが、元軍人ということしか知らなかったため、まさかこんな話が飛び出すとは思わなかった。

「俺も若い頃は軍に居てな。俺は足を洗ったが、同胞にはまだ籍を置いている奴もいる」

私はボスを改めて見た。
どこをどう贔屓目に見ても、ぽってりと太った典型的アメリカ大量生産型の中年親父だというのに。
軍人だった面影はどこにも見当たらない。軍人と言うより、ディナーに並ぶ食用豚だ。

(やっぱ人は見かけで判断するには奥が深いわ……)

「まぁ、関わる気がないなら関わらないほうがいいってことだ」

その言葉には素直に頷いておこう。
果たしてあの曲者を、私ごときに巧くかわせるかが問題だが。

「……それからな」

デスクに戻ろうとしたら、もう一度呼び止めたられた。

「興味本位でも、奴のベッドにはついて行くなよ」

ボスは、やはり大真面目て言った。セクハラか?
本社に訴えてやろうか。

「経歴が特殊なら、性癖も特殊らしいぞ」
「……はぁ」

その聞きたくもなかった個人情報はなんなのだろうか。

「……特殊って?」
「抱かれた女の一人が、未だ意識不明の重体だそうだ。他にも不審死を遂げた女もいるそうだぞ」

(ジーザス……)

ハジとした食事の約束を、今すぐ反故にしたくなった。

(寧ろ知り合ったこと自体、取り消したい……)