これという選曲はせず、ただ心の思うままに任せて指先を動かす。

 部屋に生まれた小さな音はすぐさま辺りの静寂に吸い込まれ、消えた。

 久しぶりに触れたせいか、鍵盤が重くなったように感じる。

 泉の生母、雪乃(ゆきの)が使っていたグランドピアノである。といっても、オーケストラで使われるような本格的なサイズのではなく、それより幾ばくか小さめのグランドピアノだ。

 鍵盤の一部が不良で、修理に出していた物がようやく泉の元に帰ってきた。

 それまでベッドと机とクローゼットしかなかった泉の部屋が、ピアノを運び入れたことで一気に狭くなった。

 けれど、まったく苦ではない。

 だってこのピアノは、雪乃の遺した唯一の品であり、彼女とのかけがえのない思い出なのだから。

 そばにあり、触れるだけで、彼女のことを思い出し、あたたかな気持ちになる。同時に、もの悲しい気分にもなるけれど、それはもう慣れっこだ。

 イスに腰掛けて今度は両手の指を鍵盤に添える。

 紡がれるメロディに瞼を伏せる。流れが生まれる。身を委ねる。

 これは、雪乃の書いた曲。

 譜面がなくても、指が次に向かう鍵盤の位置を把握しており、勝手に移動するとまた次へ移っていく。

 瞼に浮かぶは、放課後みせた佳乃の切なげな横顔。

 笑い者にしたくない、だから、小野寺には近づかない―――そう言った彼女の歪んだ決意が泉の心に暗い影を落とす。
 それは細い針となって、泉の胸を幾度となく刺していく。

 そこでふと音が途切れた。指が独りでに止まったのだ。

 手は鍵盤に置いたまま、心の中で尋ねる。

(お母さん…私はどうすればいいんだろ)

 佳乃のことも、翔吾のことも。

 明日、また友香の荷物を届けるよう頼まれている。そのとき彼女の目を盗んで様子を見に行くつもりでいるが、果たして自分に設楽の言う《繋ぎ》が出来るかどうか。

 己の心を開くという感覚が、よくわからない。

 佳乃を抱きしめるように、翔吾の心を包み込めばいいのか。いやいや、言葉では簡単に言えても、実行するのは容易なことじゃない。

 心は、手で触れることが出来ない目に見えないものなのだから。