尊壌派の長州藩等が、大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に名ずる事を考明天皇に献策しようとした。


そして、幕府がこれに従わないのなら長州藩は綿の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬ることまで考えていた。


しかし、事前に薩摩藩に察知されてしまう。


幕府を貶めようとした長州藩は、計画を察知されたために、薩摩藩や京都守護職を勤める会津藩、会津藩主・松平容保、尊壌派を良く思っていない孝明天皇や公武合体派の公家が連帯して、長州の計画を潰し、朝廷における尊壌派一掃を画策したのである。



京から倒幕勢力を排除。


長州を、尊皇壌夷派を京都における政治の中枢から追放する。

これが、八月十八日の政変と言われたものだ。




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